ヨハネの福音書6章60~71節

すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれ
のところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのこ
とばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であ
ると信じ、また知っています。」イエスは彼らに答えられた。
「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。
 …」
       ヨハネの福音書6章68-70節(p191)

序 論) ガリラヤで主イエスは五つのパンと二匹の魚で
五千人以上の人たちを養われる奇跡のみわざを成されまし
た。(3-14) そのことをきっかけとして主イエスはユダヤ
人たちと対話され、「いのちのパン」について話されまし
た。(26-59)
 その後の主イエスと弟子たちとのやりとりを通して示さ
れることは…

1.父なる神様が御子に与えてくださる者たち
 主イエスの言葉(53-58)を文字通りに受け取った弟子

たちは、主への不信の思いを語ります。(60)
 弟子たちのつぶやきを聞かれた主イエスは彼らに答えら
れました。(61-65)
 天から下って来られた主は、ご自身の十字架の死と復活
の後の昇天について語られます。(62) 
「人の子」は主イエスご自身のことであり、「かつていたと
ころ」は、父なる神様のみもとです。
 主イエスが天から下って来られたことを受け入れない彼
らにとっては、これから主がなされる救いのみわざを信じ
ることはなおさら難しいことでした。
 主イエスの十字架と復活、昇天によって与えられる救い
の恵みにあずかることが永遠のいのちにあずかることなの
です。
 私たちに主イエスを信じる信仰を与え、いのちを与えて
くださるのは御霊(聖霊)のお働きです。(63)
 主はみことばを聞き、従って来た弟子たちのうちにも信
じない者がいることを知っておられました。(64)
 父なる神様が与えてくださらなければ誰も御子イエス様
のもとに来ることはできません。(65)(37、44節参照)

 2. 永遠のいのちのことばを持っておられるお方 
 主イエスの語られることが理解できず、主を受け入れる

ことができなくなった多くの弟子たちが去って行きました。
(66)
 主イエスは十二人の弟子たちに尋ねられます。(67)
 しかし、彼らは主のもとを離れようとはしませんでした。
シモン・ペテロは、彼らを代表して、その思いを率直に
語りました。(68-69)
 「神の聖者」(69)とは、神様が世から聖別された特別な
お方という意味です。彼らは主イエスをそのようなお方だ
と認めていました。
 十二人の弟子たちは、このときは、どうして主イエスが
「天から下って来た生けるパン」(51)なのか、また主が成
そうとしている贖いのみわざが何なのかをまだ十分にわかっ
てはいませんでした。
 それでも、彼らは主のもとから離れようとはしませんで
した。主イエスのみことば(永遠のいのちのことば)が彼ら
の心を捕えていたからです。「それなのにどうして今さら、
あなたから離れて、ほかの人のところへ行けるでしょう」、
そのような気持ちをもってペテロは主イエスに対する信仰を
表明したのです。
 ペテロの言葉を聞かれた主イエスはご自身が彼らを選ば
れたこと、そして、その中の一人、イスカリオテのユダが
裏切ろうとしていることを告げられました。(70-71)   

結 論)主イエスは、ここで語られた通り、十字架で死なれ
復活された後、主は天に昇られ、父なる神の右の御座に着
かれました。
 そして、弟子たちに聖霊を送ってくださいました。
 今も、主イエスはご自身を信じる者に聖霊を与えてくだ
さり、永遠のいのちに生かしてくださいます。
 私たちが、主イエスを信じる者とされたのは、
主イエスが私たちを選んでくださったからです。
  「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあ
なたがたを選び、あなたがたを任命しました。…」
        (ヨハネの福音書15章16節p216)
 主イエスを信じる者のうちに聖霊によって主がともに
生きておられます。その恵みを覚え、聖餐にあずかり、
主とともに歩んでまいりましょう。

 (参考)

 ハイデルベルク信仰問答81   聖餐について
 問81 どのような人が、主の食卓に来るべきですか。
答 自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、キリストの苦
難と死とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われること
をなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強
められ、自分の生活が正されることを切に求める人たちです。

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ヨハネの福音書6章41~59節

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこの
パンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与え
るパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。
      ヨハネの福音書6章51節(p190)

序 論) ガリラヤで五千人にパンを与える奇跡(1-15)、ガ

リラヤ湖の上を歩く奇跡(16-21)をなされた主イエスは
ガリラヤの人たちに話されます。(22-40) それを聞いた
人たちに対してさらに主は語られます。今回の箇所から示
されることは…

1.信じる者は永遠のいのちを持っている
 主イエスの地上の父母(ヨセフとマリア)のことを知って

いるユダヤ人たちには、「…天から下って来た…」という
みことばが理解できませんでした。(41-42)
 父なる神様が御子イエス様を地上に送られ、救いのみわ
ざを成そうとしておられました。神様が引き寄せてくださ
らなければ誰もこの救いにあずかることはできません。
 (44)
 神の民が「…みな、神によって教えられる…」というイ
ザヤの預言(イザヤ書54章13節p1261)が成就するときが来
たのです。(45)
 主イエスを通して父なる神の御声を聞き、主を信じる者
は天からのパン(救いの恵み)にあずかることができるのです。
 出エジプトのとき、荒野でイスラエルの民に与えられた
マナは、後に来られる救い主イエス様を予表するものでし
た。(49) (出エジプト記16章35節p129)
 後に主イエスが十字架の上で、ご自身の肉と血を犠牲と
してささげてくださったことにより、私たちが罪から救わ
れる道が開かれたのです。
 それゆえに主イエスを「信じる者は永遠のいのちを持っ
ている」のです。(47)
 永遠のいのちに至る「生けるパン」は、主イエスの十字
架の死が私の罪のための「贖(あがな)いの死」であったこ
とを信じ受け入れる者に与えられます。

 2. まことの食べ物、まことの飲み物
 主イエスのみことばを聞いていたユダヤ人たちは、その

意味を理解することができませんでした。(53)
 主ご自身の「肉を食べ、血を飲む」とは、主イエスの十
字架による救いを私自身のこととして信じ、受け入れるこ
とを意味しています。(54-55)
 また「まことの食べ物」、「まことの飲み物」は後に主
イエスが制定される聖餐(主の晩餐)のパンとぶどう酒のこ
とを暗示しています。(56)
 裂かれたパンは、十字架で裂かれた主イエスの御体、
ぶどう酒は、十字架で流された主の血を意味しています。
「生ける父」(父なる神様)が「わたし」(御子イエス様)
を地上に遣わされました。主イエスは、父なる神様との深
い交わりを持ちつつ、歩まれました。(57)
 「わたしを食べる者」(主イエスを信じる者)も主との交
わりの中で、生かされるのです。
 後の最後の晩餐のとき、主イエスは弟子たちに次のよう
に語られます。
「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわた
しのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいること
が、あなたがたにわかります。」
                (ヨハネの福音書14章20節p214)
 主イエスの十字架と復活、聖霊降臨によってこのみこと
ばが、今、信じる者のうちに実現しています。   

結 論)「先祖が食べて、なお死んだようなもの」(58)は、
49節で語られたマナのことです。マナは肉体のいのちの
ために必要な食べ物でした。それは一時的なものです。
 しかし、「天から下って来た生けるパン」(51)である
主イエスを信じ、その肉と血にあずかる者は永遠のいのち
に生かされるのです。
 主ご自身の肉と血を指し示す聖餐の恵みにあずかりつつ、
主との人格的な交わり、三位一体の神様との交わりの中に
入れられ、主に従う道を歩み続けてまいりましょう。

(参考)
 ハイデルベルク信仰問答81   聖餐について

 問81 どのような人が、主の食卓に来るべきですか。
答 自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、キリストの
苦難と死とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われる
ことをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰
が強められ、自分の生活が正されることを切に求める人た
ちです。

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ルカの福音書5章12~16節

その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、
お心一つで私をきよくすることがおできになります。」
イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよく
なれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた
       ルカの福音書5章12b~13節(p118)

序 論) ゲネサレ湖(ガリラヤ湖)での出来事(5章1-11
節)の後、主イエスは弟子たちとガリラヤで宣教を続けられ
ました。主がある町におられたとき、ツァラアトに冒され
た人に出会われます。そこで起こった出来事を通して示さ
れることは…

1.主の御前でひれ伏す 
 「ツァラアト」は、当時、治すのが難しい皮膚病の総称

でした。
 伝染力が強く、律法により汚れた病とされ、その病人に
対して様々な厳しい規定が定められていました。
                   (レビ記13章~14章 p196)
 ツァラアト患者は、病気であることを周りに知らせ、社
会的にも隔離され、宿営の外でひとりで生活しなければな
りませんでした。(レビ記13章45-46節p199)
 この「全身ツァラアトに冒された人」(12)は、主イエス
がこの町におられることを聞き、主のもとに来ました。あ
るいは誰かに連れられて来たのかもしません。
 彼は、主の御前でひれ伏しました。(12)
 彼は、イエス様に向かって「主よ」と呼びかけます。
 彼は、主イエスに「この病をいやしてください」とは
言わず、「お心一つで…」と言いました。
 あなたが願ってくださるだけで、私はきよくされるので
す、という思いを込めて、このように言い、へりくだって
主にお委ねしました。
 主の御前にひれ伏した彼の姿が、旧約聖書の哀歌の言葉
と重なります。「口を土のちりにつけよ。もしかすると希
望があるかもしれない。」(哀歌3章29節p1408)
 この動作は、神様の御前にへりくだり、従うことやひれ
伏し祈ることを示しています。(哀歌は、バビロン捕囚
(BC605年~586年頃)に現わされた、神様のさばきの厳
しさと共に、その後にある回復の恵みを示唆しています。)

 2. 主は触れられ、いやされる  
 ツァラアト患者に触れると、その人も汚れると言われて
いました。
 しかし、主イエスは御手を伸ばし、彼に触れられます。
そして、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。
すると彼はいやされ、きよめられたのです。(13)
 主イエスは、彼にこのことを誰にも話さないようにと
言われ、レビ記に定められた律法に従うように命じられま
した。(14)(レビ記14章2-32節p200)
 いやされたこの人が律法に従って、社会復帰することを
主は願われこのように言われたのです。そうすれば、彼の
身に起こったことは自然に証しされます。
 しかし、主イエスのみ思いとは違い、奇跡のみわざを
通して、主のうわさはますます広がりました。そして、
人々が主のもとに集まって来ました。(15)
 けれども、主は寂しい所に退かれ、父なる神様に祈ると
き、神様との交わりのときを持たれました。(16)
 この後、主イエスと洗礼者ヨハネが遣わした人たちとの
やりとりの中で、主はご自身が成しておられたみわざに
ついて語られます。(ルカの福音書7章22節p124)
 「ツァラアトに冒された者たちがきよめられる」という
奇跡のみわざも、主イエスが「おいでになるはずの方」
救い主であることを証ししていたのです。
 そして、この後、主イエスは、すべての人の救いの道を
開くために十字架に向かわれます。

結 論)主イエスは父なる神様のみこころを行うため地上に
来られ、十字架の死と復活によって救いのみわざを成し遂
げられました。
 父なる神様は、私たちが御子イエス様のみもとに来るこ
と、御子を信じて罪から救われ、永遠のいのちに生かされ
ることを願っておられます。
 病がいやされ、きよめられたこの人のように私たちも
へりくだって、主イエスのみもとに行き、主に求めてまい
りましょう。
 主イエスは私たちの祈りや願いを聞き、それぞれにふさ
わしい形でそれらに応えてくださり、私たちを通して、そ
のお働きを進めて行かれます。
 聖霊とみことばによって今も主イエスは私たちに語りか
けられ、触れてくださり、交わりをもたれます。
 主ご自身をさらに求め、主とともに歩んでまいりましょう。

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ルカの福音書5章1節~11節

話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下
ろして魚を捕りなさい。」
 
 すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きま
したが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、
網を下ろしてみましょう。」
       ルカの福音書5章4,5節(p.117)

序 論)ある朝、ゲネサレ湖(ガリラヤ湖)の岸辺で、一晩中
漁をし、一匹の魚も捕れずくたくたになりながら、網を洗
うシモン(ペテロ)や漁師仲間がいました。そのような彼
らの間に主イエスが立たれました。
 今日は主イエスとペテロとのやり取りを通して、私たち
への語りかけを聞いて参りましょう。

本 論)
1、主のことばを聞く

 主イエスはシモン(ペテロ)の舟に乗り込み、陸から少
し漕ぎ出すように頼まれました。(3)それは、神のことばを
聞こうとして押し寄せてきていた群衆から距離を取るため
でした。(1)彼らは、主イエスがカペナウムで癒しをな
さったり悪霊を追い出されたりしたことを見たり聞いたり
していました。ですから、純粋に神のことばを聞くという
だけでなく、その衣にでも触れたい、自分も癒していただ
きたいとの動機が彼らの中にはあったでしょう。
 主イエスがペテロの舟に乗り込み、陸から少し離れるこ
とで人々との距離ができました。彼らはそれ以上、
主イエスに近づけず、できるのは主のおことばに耳を傾け
ることだけでした。主は集まった群衆に向かって舟から教
えられました。同時に、同じ舟に乗っているペテロたちも
主のおことばをすぐ近くで聞いたのでした。
 私たちも色々な願いがありますが、まず第一に主のおこ
とばに耳を傾けることをイエス様は願っておられるのです。

2、主のことばに従う
 主イエスは話が終わるとシモンに言われました。「深み
に漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」(4)
ペテロたち漁師は夜通し苦労しましたが、何も取れませ
んでした。彼らはプロの漁師ですからガリラヤ湖は自分の
庭のようなものです。季節や天候によって魚が捕れるポイ
ントや時間も知っていました。ですから大工の息子であり
漁においては素人である主イエスから「網を下ろして魚を
捕りなさい」と言われても反感が沸くのが当然かと思えま
す。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れま
せんでした」という彼の言葉の中にはそのような思いが感
じられます。また、魚の捕れやすい夜間でも不漁だったの
だから、太陽が昇った今ではなおさら捕れるはずがないで
すよという気持ちが表れていました。
 しかし、ペテロは「でも、おことばですので、網を下ろ
してみましょう。」(5)とそのおことばの通りに従った
のでした。「おことばですので」という言葉には即座に従
う意味が含まれています。この聖書箇所の前にペテロは主
イエスのおことばによって姑の熱を癒していただく経験を
しています。(4:38、39)また、群衆に語る主のおことば
に権威を感じ取っていたことでしょう。
すると驚くべきことが起こり、ペテロは大漁の奇跡を体
験しました。そして、主イエスの前にひれ伏しました。
「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」
(8)ここでペテロはそれまで「先生」とよんでいたのに
「主よ」と言います。神の御子であるイエス様の圧倒的な
力を見せつけられ、自分が無力であり、本来ならば、この
お方に近づくことすらできない罪人であることを思い知り
ました。
 ペテロの告白に続いて、主イエスは「恐れることはない。
今から後、あなたは人間を捕るようになるのです」(10)と
言われます。「捕るようになる」の原文を直訳すると「生
きたまま捕らえる者となる」です。通常、漁によって魚は
捕らえられ死んでしまいます。しかし、主イエスが言われ
るのは生け捕りにして命を与えるということです。
ペテロがまず主イエスに「捕らえられ」新しい命を与え
られたのです。そして、今後は人を捕らえて主の命に生か
すために働く者へと召されたのです。

結 論)弟子になってからペテロは三年半イエス様に仕え
ましたが、最後に主を裏切るという失敗があり、自分の罪
に悩みました。そんなペテロによみがえられたイエス様は
「あなたはわたしを愛していますか」と三度お尋ねになり、
「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたが
ご存じです。」(ヨハネ21:15-17)とペテロも三度答え
ました。三度否んだ彼を主は赦し、もう一度弟子としてお
立てになりました。ここでも、イエス様によってペテロは
生かされました。
 この後、ペテロは三十年余りにわたって諸教会を導くこ
とになりますが、その間、激しい迫害に何度も会いながら
もぶれることがありませんでした。最後は殉教したと言わ
れますが、死に至るまで忠実であることができたのも主の
みことばの力であったでしょう。
 福音は人を生かし新たにします。私たちも色々なことが
起こってきますが、みことばによって生かされていくなら
ば、私たちの人生が徒労に終わることは決してありません。
 主のおことばを聞き、蓄え、従って参りましょう。

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エペソ人への手紙4章25節~5章2節

互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリス
トにおいてあなたがたを赦してくださったのです。ですから、
愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また、
愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たち
のために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳
ばしい香りを献げてくださいました。
エペソ人への手紙4章32節 ~5章2節(p.389)

序 論) ペンテコステ(聖霊降臨日)は、主イエスを信じる
弟子たちに聖霊が降られ、世界で初めて教会が誕生したこ
とを記念する日です。(使徒の働き2章1-4節p233
                               2章41-47p236)
  今回の箇所は、使徒パウロがエペソ教会の人たちに書い
た手紙の一部です。この箇所を通して示されることは…

1.真実と愛の言葉
 主イエスを信じ、救いの恵みにあずかった者に対し、パ
ウロはその人は「古い人を脱ぎ捨て」、「新しい人を着た」
のだと言います。(22-24)
 聖霊によって私たちは霊と心が新しくされ続け、
キリストに向かって成長していきます。(16)
 そして「私たちは互いにからだの一部分なのです」と語
ります。(25) 私たちは、「キリストのからだ」である教
会の一部分です。
    「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとり
はその部分です。」
(Ⅰコリント人への手紙12章27節p345)
 私たちは、主にある交わりの中で、ともに成長していき
ます。
  「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」
(25)
 そして、「怒っても、罪を犯してはなりません」(26)と勧
告します。 怒りは、悪魔が働き、つけ入る機会を与えてし
まいます。(27)
 そして、自らのためだけでなく、「困っている人たちに
分け与えるため」(28)、正当な勤労に励むよう勧めます。

 2. キリストにならう者
 さらにパウロは「悪いことば」ではなく、「人の成長に

役立つことば」を語るように勧めます。(29)
「人の成長に役立つ」の元の言葉は建物を「建て上げる」
という意味の言葉です。クリュソストモスという神学者は
「隣人を建て上げることだけを語れ、そのために神はあな
たに口を与え、舌を授けられた。」と語っています。
 聖霊と聖書のみことばによる励ましや慰めを主からいた
だいている者は、人に励ましや慰めの言葉を語ることがで
きるのです。
 26-29節に語られているような、古い人の言行が聖霊

を悲しませます。(30)
 「贖いの日」(30)は、主イエスが再臨される日、神様が
成される救いの完成の日のことです。
 31節に記されているのは「古い人」の罪の心であり、
それを捨て去りなさいと勧めます。
 32節は「新しい人を着た」者がこのように変えられる
ことを示しています。
 神様がキリストにあって私たちを赦してくださいました。
赦された者であるからこそ、人を赦し、神様に愛されてい
るからこそ、人を愛することができるのです。
 神様は私たちを「神の子」として愛しておられます。                        (5章1節)
神様はキリストにおいて私たちに対する最大の愛を示して
くださいました。
            (ヨハネの手紙 第一 4章9-10節p483)          

結 論)ペンテコステ以降、イエス様を神の御子、救い主
(キリスト)を信じ、心に受け入れる者には、聖霊によって
御子がその人のうちに住んでくださいます。
 (ローマ人への手紙8章14-16節p309)
 私たちは聖霊の力、私たちのうちに注がれる神様のご愛
によって、神を愛し、人を愛する者とされるのです。
                    (5章2節)
 主イエスを信じ、従う者は、キリストにならう者でも
あります。
 トマス・ア・ケンピスが『キリストにならいて』という
書物を記しています。「神に倣う者」(5章1節)とは、
キリストにならう者です。
 主イエスが父なる神様に祈りながら歩まれたように、
私たちも神様に祈りながら、イエス様と共に愛のうちに
歩んでまいりましょう。

(参考)

クリュソストモス(AD347年頃―407)
  (「金口(きんこう)ヨハネ」とも呼ばれる。
     (東ローマ帝国 コンスタンティノープルの大主教)
       (現在のトルコ共和国 イスタンブール)

トマス・ア・ケンピス(1379-1471)
      (ドイツ出身の司祭 聖アウグスチノ修道会副院長)

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ヨハネの福音書6章34~40節

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしの
もとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者
はどんなときにも、決して渇くことがありません。…」
             ヨハネの福音書6章35節 (p.189)

序 論) 主イエスはガリラヤの群衆に、ご自身が「天から
のまことのパン」であり、「神のパン」であることを語ら
れました。(32-33)
 主のみことばの意味を理解できない彼らはさらに尋ね
ます。(34) 主が答えられ、さらに語られたことを通して
示されることは…

1.主ご自身がいのちのパン
 ガリラヤの人たちが求めているパンは、肉体の空腹を満
たすパンでした。そして、それを主イエスに期待していた
のです。(34)
 主は、父なる神様が与えてくださるまことのパン、いの
ちのパンとはご自身であることを告げられました。(35)
 いのちのパンである主イエスを信じる者に聖霊が与えら
れます。
 主イエスはサマリアで出会った女性に「… わたしが与え
る水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧
き出ます」と言われました。(4章14節p182)
 ここで主が言われる「永遠のいのちへの水」とは聖霊のこ
とです。
 主は、「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る
食べ物」(5章27節)であり、「渇くことのない水」であ
る聖霊を与え、私たちの心を満たしてくださいます。
 主イエスはこのように語られ、ガリラヤの人たちを招か
れましたが、彼らは信じませんでした。(36)
彼らは主イエスを父なる神様が遣わされたお方だと信じる
ことができなかったのです。
 父なる神様が主イエスを信じることを願って人々を主の
もとに送ってくださいます。(37) そして、主イエスはご
自分のもとに来た人たちを受け入れてくださるのです。
 今も、主イエスは「わたしのもとに来なさい…」と招い
ておられます。
           (マタイの福音書11章28-30節p21)

 2. 父なる神のみこころ
 主イエスが言われたご自分の「思い」と「わたしを遣わ
された方(父なる神様)」の「みこころ」(38)という言葉は、
原語では同じ言葉です。主イエスはご自分の思い(ご意志)
で行われるのではなく、父なる神様のみこころを果たすと
言われます。
 新約聖書の中に神様のみこころとは何かが語られている
箇所がいくつかあります。
     (テサロニケ人への手紙 第一 4章3節p411)
             (ヘブル人への手紙10章10節p449)
 ここでも、主イエスは父なる神様のみこころとは何かを
はっきり示されました。(39) それは私たちが永遠のいの
ちを得ること、終わりの日に復活させることです。
 「終わりの日」とはこの後、十字架にかかられ、復活さ
れ天に昇られる主イエスが、再びこの地上に来られる日の
ことです。
 40節でもう一度、そのことを語られます。父なる神様
は御子イエス様を信じる者に永遠のいのちを与えられるた
めに、御子をこの地上に遣わしてくださいました。そして
 主イエスを信じる者を終わりの日に主がよみがえらせてく
ださいます。
 主イエスは一人も失うことなく、終わりの日に復活させ
てくださる。それが父なる神様のみこころであり、それを
成し遂げるために主は十字架に向かって進んで行かれたの
です。          

結 論)私たちはいのちのパンである主イエスによって永遠
のいのちに生かされます。
 主イエスは私たちが地上に生きるときも、地上の生涯を
終えて御国に移されるときも、私たちにとっていのちのパ
ンです。
 主はわたしたちに聖霊とみことばを与えてくださいます。
 私たちにとっての霊の糧である、聖霊とみことばを、祈
りと聖書の言葉を読み、聞くことを通して受取りましょう。
 私たちも、弟子たちのように、なくなってしまう食べ物
のためではなく、いつまでもなくならない永遠のいのちに
至る食べ物のために奉仕させていただきたいと願います。
(27)
 主からの霊の糧を豊かにいただき、いのちのパンを魂の
飢え渇いている人たちに配る者、みことばを伝え、
主イエスを証しする者とさせていただきましょう。

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ヨハネの福音書6章22節~33節

それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、
あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパン
を与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天
からのまことのパンを与えてくださるのです。
             ヨハネの福音書6章32節 (p.189)

序 論) 五千人もの人々にパンと魚を分け与えるみわざ
(第四のしるし)(6章9-14節)、ガリラヤ湖の上を歩かれ
る奇跡(第五のしるし)(6章19節)を成された主イエスは、
カペナウムにおられました。
 その翌日、ガリラヤの群衆は、主イエスを捜して、カペ
ナウムに向かいます。(22-23)
 彼らは主のもとに来て尋ねます。(25)
主が彼らに語られたことを通して示されることは…

1.永遠のいのちに至る食べ物
 主イエスの言われる「しるし」は、ご自身が神の御子で
あり、救い主(キリスト)であることを証しするみわざでした。
 しかし、群衆が追いかけて来たのは、しるしを見て
主イエスを信じたからではありませんでした。それは、パ
ンを食べた満腹感の故であることを主は指摘されたのです。
 (26)
 また彼らは主イエスを王にしたいという思いも持って
いました。(15) 彼らは自分たちのうちの霊的な渇き(真の
神を求める心)に気づいていなかったのです。
 主イエスはそのような彼らに語られます。(27)
「人の子」は主イエスご自身のことです。主は「いつま
でもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物」を与えて
くださいます。(27)
 主イエスだけが、神様を求める私たちの霊的な飢え渇き
を満たしてくださるお方です。
 それは父なる神様が認証しておられるのです。(27c)

 2. 神様が遣わされたお方
 さらに彼らは主イエスに問いました。(28) ここでの
「神のわざ」の「わざ」は原語では複数形になっています。
彼らは、いくつかのことをしなければならない、と思って
いたのです。
 それに対して主は、答えられます。(29) 主の言われる
「わざ」は原語では単数形になっています。本当に大切な
こと、するべきことは、一つだけです。それは神様が地上
に遣わされたお方、イエス様を信じることなのです。
 しかし、ガリラヤ人たちはさらにしるしを要求します。
(30) 前日、彼らは主イエスのパンの奇跡を見ました。
それが十分な「しるし」であるはずです。
 それなのに彼らは、かつてイスラエルの民に荒野でマナ
が与えられたときのような「しるし」を求めました。
 (30-31) 彼らが引用したのは詩篇78篇24節(p1014)
の言葉です。
 モーセに導かれたイエスラエルの民は荒野でマナを食べ
ました。(出エジプト記16章13-36節p128)
 彼らが求めたのは、第二のモーセとしての「しるし」で
した。彼らは、天からのパンを与えて自分たちを養い、満
腹させてくれるモーセのような預言者を求めていたのです。
 彼らの根本的な動機は物質的な欲(貪欲)でした。
  (「貪欲は偶像礼拝です。」
コロサイ人へ手紙3章5節p404)
 主イエスは彼らの問いに答えて二つのことを述べられま
す。
 一つは、イスラエルの民にマナを与えられたのは、モー
セではなく神様でした。(32)
 もう一つは、人間に必要なまことの食べ物は、物質的な食
物ではなく、まことのいのちを与える「天からのまことの
パン」であることでした。(32)
 それを「神のパン」とも言われました。(33)それは、
主イエスご自身のことを意味しています。
 主イエスは神様が遣わされたお方であり、天から下って
来られたお方です。          

結 論)ここで言われている「世」は、世界中の人たちのこ
とです。(33) 父なる神様は私たちを永遠のいのちに生か
すために御子イエス様を与えてくださいました。
 (ヨハネの福音書3章16-17節p180)
「なくなってしまう食べ物」(27)は、物質的な食べ物の
ことだけではなくいつかはなくなってしまう有限なものや
偶像を象徴しています。それは死を越えて私たちを生かす
ものではありません。
 罪人である私たちのために十字架で死なれ、復活された
神の御子イエス様を救い主と信じること、そのことによっ
てのみ私たちは永遠のいのちに生かされるのです。
 主イエスを信じ、従い、主と共にいのちの道を歩んでま
いりましょう。

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ヨハネの福音書6章16節~21節

そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したこ
ろ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来ら
れるのを見て恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。
「わたしだ。恐れることはない。」
         ヨハネの福音書6章20-21節 (p.188)

序 論) 過越の祭りが間近に迫っていた頃、主イエスは、
男性だけでも五千人の人々にパンと魚を分け与える
みわざをなされました。(第四のしるし)(6章9-14節)
  ガリラヤの群衆は、主を王にしようとしましたが、
主は山に退かれました。(15)
  その日の夕方以降に起こった出来事を通して示される
ことは…

1.ガリラヤ湖の強風
 弟子たちはガリラヤ湖畔に下りて行き舟に乗り込みまし
た。(16-17a)
 彼らを熱狂的な群衆から逃れさせるため、主イエスは彼
らを舟に乗り込ませられたのでしょう。
 主は、後から舟のところに来られることになっていたの
かもしれません。
 しかし、すでにあたりは暗く、主はまだ彼らのところに
来られていませんでした。(17b)
 弟子たちは一足先にカペナウムに向かいます。(17a)
 途中で強風が吹いて湖が荒れ始めました。(18)
 彼らは行く手を阻まれますが、舟を漕ぎ続けました。
 弟子たちが舟で強風の中を進んでいく姿は、私たちの
日々の歩みを象徴しています。
 私たちもその歩みの途上で様々な苦難や試みにあいます。                     (詩篇116篇3節p1057)
 そのような時もあわれみ深い神様に信頼し、主の御名を
呼び求めましょう。神様は守りの御手を私たちに伸べてく
さいます。
           (詩篇116篇4-7節p1057)

 2. 湖の上を歩かれ舟に近づかれる主 
 「二十五ないし三十スタディオン」(19)は、約40~
50㎞の距離です。これは、舟がガリラヤ湖の真ん中あた
りに来たことを示しています。
 そこへ主イエスが湖上を歩いて舟に近づいてこられまし
た。(19)(第五のしるし)
 それを見た弟子たちは恐れました。
 主は怖じ惑う彼らに御声をかけられます。(20)
「わたしだ」は、原文のギリシア語では「エゴー・エイミ」
で英語の直訳では「アイ・アム( I am)になります。
  (英訳聖書では It is I. と訳されている)
 そして、「わたしだ」の言葉は、旧約で神様がモーセ
とのやりとりの中で伝えられたご自身の御名「わたしはあ
る」のみことばと重なります。(出エジプト記3章14節
p102)
 主イエスのこのみことばは主ご自身が神であられること
を示しています。
 主からの励ましをいただいた弟子たちは主を喜んで舟に
迎えました。(20a)
 その後、舟はすぐ目的地に着きます。(20b)
 このように主イエスは、弟子たちを訓練され、その中で、
ご自身が神であられることを、そのみわざを通して示され
ました。
 しかし、このときはまだ彼らは、主イエスがどのような
お方かを悟ることができなかったのです。
 それは「その心が頑なになっていたから」でした。                
    (マルコによる福音書6章52節p79)
          

結 論)私たちは主イエスの身代わりの死によって、罪赦さ
れ神の子とされました。
 私たちも「強風」や「逆風」と思えるような困難や苦し
みに遭うときがあります。様々な出来事に不安や恐れを抱
いてしまうこともあります。
 しかし、主イエスは、今も私たちのそばで、御声をかけ、
励ましてくださいます。
 主は私たちと共におられ、聖書を通し、語り励ましてく
ださるのです。そして良き導きと助けを与えてくださいま
す。
 「私は生ける者の地で 主の御前を歩みます。」
                     (詩篇116篇10節p1057)
 私たちの地上の生涯の最終目的地である「天の御国」に
迎え入れられるまで、主の恵みに応答しつつ、主と共に歩
み続けましょう。

(参考)
 今回の聖書箇所
 ヨハネの福音書6章16-21節(p188) の並行箇所は

 マタイの福音書14章22-27節(p29)
 マルコの福音書6章45-52節(p78)

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ヨハネの福音書6章1節~15節

そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてか
ら、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにし
て、彼らが望むだけ与えられた。
         ヨハネの福音書6章11節 (p.188)

序 論) 主イエスは弟子たちと共にエルサレムから再び
ガリラヤに戻って来られました。
 主はガリラヤ湖(ティベリア湖)の向こう岸に行かれます。
(1) そこで主が成されたこととその出来事を通して示さ
れることは…

1.弟子たちと少年
 主イエスは岸に着かれました。そのときから大勢の群衆

がついて行きました。(2) それは以前、すでに行われたし
るしを見たからでした。
 主は山に登られました。過越祭が近づいている頃でした。
(3-4)(春の時期)
 (「青草」が生えている頃 マルコ6章39節p78)
 主イエスは大勢の群衆に与えられる食べ物について弟子
のピリポに尋ねられます。それは彼を試されるためでした。
 (5-6)
 「二百デナリ」(7)は、当時の約二百日分の賃金に相当す
る額でした。それでも五千人分ものパンを一時に集めるの
は不可能でした。
 これまで主イエスは弟子たちにご自身に対する信仰が与
えられるようにみことばを語り、しるしを成さって来られ
ました。(ヨハネの福音書4章31-34節p183等)
 このときも主は、弟子たちがご自身に対して信仰をもっ
て、応答することを願っておられたのです。
 しかし、ピリポをはじめ、他の弟子たちも今の現実しか
見えていませんでした。
 弟子のアンデレはシモン・ペテロの兄です。(8) 彼は、
大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年を主イエスのも
とに連れて来ました。(9) そのアンデレ自身も「それが何
になるでしょう」と言いました。   
(「大麦のパン」は貧しい人々の安いパン。ここでの「魚」
は小さな干し魚(ざかな)か焼き魚(ざかな))
 しかし、少年は、これらが何かの役に立つのならと思っ
て、主イエスにお渡ししたことでしょう。

 2. 五千人にパンを与えられる奇跡(第四のしるし)
 主イエスは人々を座らせるように弟子たちに言われまし

た。(10) 男性だけでおよそ五千人ですから、女性や子ど
もを加えればもっと大勢の人たちがいました。
 主イエスは少年からパンを受け取られ、感謝の祈りをさ
さげ、五千人を超える大群衆に分け与えられたのです。小
さい魚も同じようにして、「望むだけ与えられ」まし
た。(11)
 パンと魚の量は奇跡的に増やされ、彼らが十分食べても、
さらに余るほどになりました。(12)
 その食べ残りの余ったパン切れを集めると、十二のかご
がいっぱいになりました。(13)
 この「しるし」を見たガリラヤの人たちは主イエスを
「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」
と認めました。(14)
 旧約時代の出エジプトの後、モーセは天からのマナで荒
野を旅するイスラエルの民を養いました。
              (出エジプト記16章13-36節p128)
 ガリラヤの人々は、主イエスこそがモーセに告げられて
いた預言者だと思ったのです。
                    (申命記18章18節p348) 
 熱狂したガリラヤの大群衆は、さらに主イエスを政治的
な王に祭り上げようとします。主は、そのような彼らの意
図を見抜かれ、それを避けるために再びただ一人で山に退
かれました。(15)

結 論)主イエスがこの世に来られた第一の目的は、人々の
物質的必要を満たすことではなく、主を信じる者が滅びる
ことなく、永遠のいのちを持つためでした。
               (ヨハネの福音書3章16節p180)
(「無駄になる」(12)とここでの「滅びる」は原語では
同じ言葉が用いられている。)
 主イエスは十字架の死と復活によって私たちを罪の滅び
から救い、永遠のいのちに生かしてくださいました。
 復活の後、天に昇られた主イエスは、今、神の右の座に
着かれました。主は天地の主権者であられます。
                 (詩篇110篇1節、4節p1053)
 私たちは、真の王、永遠の大祭司であられる主イエスに
さらに信頼し、御手にお委ねして歩みます。
 ここでのパンや魚は私たちのささげもの、奉仕、あるい
は私たち自身だと受け止めることができます。
 私たちは、このときの弟子たちと同じように「…では足
りません」(「…しかありません」)とか、「…が何になる
でしょう」と思ってしまいやすい者です。
 しかし、たとえ小さなささげものであったとしても、そ
れを主イエスの御手にささげるとき、主はそれらを用いて
ご自身の栄光を現わしてくださいます。そして、私たちを
大きな祝福をもって満たしてくださるのです。
 私たちのささげものがたとえわずかであったとしても
主の御手を信頼し、感謝をもってささげてまいりましょう。

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ヨハネの福音書5章31節~47節

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、
聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証しして
いるものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るた
めにわたしのもとに来ようとはしません。
ヨハネの福音書5章39-40節(p.187)

序論) 安息日に主イエスが一人の病人をいやされたこと
がきっかけで、主とユダヤ人たち(宗教指導者たち)の間で論
争が起こりました。(1-18)
 主イエスはまずご自分が神の御子であることと永遠のいの
ちについて語られました。(17-26)
 さらに主イエスは御自身を証しするものについて話され
ます。主のみことばを通して示されることは…

1.主イエスを証しするもの
 ユダヤ人たちは二人または三人の証言によって事柄の真偽

を確かめました。(31)(申命記19章15節p349)
 主イエスはご自分を証しするものとして四つのことを挙げ
られます。(32)
 第一に洗礼者ヨハネです。(33-35)
 彼は「輝くともしび」として、ユダヤの民に希望を与える
存在でした。彼は人々に悔い改めをとき、後から来られる救
い主を自分より優った方であると証ししました。
          (ヨハネの福音書1章27節p176)
 第二に「ヨハネの証しよりすぐれた証し」(36)として、ご
自身の成し遂げられるわざが挙げられます。
 その一つが病人をいやされたみわざでした。(2-9a)
 第三は、父なる神様が御子イエス様を地上に遣わされ、
御子によって救いのみわざを成そうとしておられたことです。
(37)
 さらに第四の証言として、聖書(旧約聖書)が挙げられます。
(38-39)
 旧約聖書は、メシア(救い主)がどのようなお方であるかを
証ししています。
 旧約聖書には、父なる神様が救い主をユダヤの地に遣わさ
れること、救い主が苦難を受けられること等が預言されてい
ます。そして、その預言通りの救い主として来られたお方が
イエス様でした。

2.モーセのような一人の預言者
 主イエスはパリサイ人たちのことを「偽善者」と非難され

ました。(マタイの福音書23章13-31節p48)
 彼らは旧約聖書の律法や自分たちが定めた規定の細かい
解釈にとらわれていました。
 彼らの旧約聖書に関する知識が自分たちの罪によってゆが
められ、それが人を欺くための道具になっていました。
 主イエスは、ユダヤ人たちの偽善の根本原因は真実に
神様を愛する愛がないことである、と語られました。(42)
 「わたしの父の名によって」は、わたしの父なる神様の
信任を受けて、という意味です。そのようにして、ユダヤの
民のもとに来られた主イエスを彼らは受け入れることができ
ませんでした。(43)
 彼らは互いの間での栄誉、人からの栄誉だけを求めていま
した。しかし、神様からの栄誉を求めてはいなかったのです。
(44)
 主イエスは、ここまで語られてきたことの結びとして、
彼ら自身が権威として信頼していたモーセを引き合いに出さ
れます。(45)
 神様はモーセに彼のような「一人の預言者」を遣わされる
ことを約束されました。(申命記18章18節p348)
 ここで語られている預言者はイエス様のことです。(46)
      (使徒の働き3章22節p238、7章37節p246)
 ユダヤ人たちが律法によって自分たちの罪を示され、
罪の赦しと永遠のいのちを求めていたなら洗礼者ヨハネの
悔い改めの勧めを受け入れ、救い主の到来に備えることが
できたことでしょう。しかし、彼らは旧約聖書のみことばを
自分たちのうちにとどめませんでした。(38)
 彼らは自分たちの罪に気づかず、目の前におられる
主イエスを信じ、受け入れることができなかったのです。 

結論)ユダヤ人たちは熱心に旧約聖書を研究しました。しか
し、聖書が証ししている、主イエスのもとに来ようとしま
せんでした。
 現在、私たちには、旧約聖書、新約聖書が与えられて
います。
 新約聖書は、十字架にかかられ復活されたイエス様こそ
が旧約聖書で預言されていた救い主であることを証しして
います。
 聖書を読み、イエス様を知り、救い主と信じ、心に受け
入れることが父なる神様が最も願われていることです。
 今も、主イエスは私たちにご自身のもとに来ることを願
い、招いておられます。
         (マタイの福音書10章28節p21)
 聖書を読み、みことばを心にとどめ、黙想することを
続けてまいりましょう。
 みことばを求め、父なる神様に祈り、主イエスとの交わ
りをさらに深めつつ、主とともに歩んでまいりましょう。

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