イザヤ書9章1~7節

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの
男の子がわれわれに与えられる。主権はその肩にあり、
その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、
平和の君」と呼ばれる。
                    イザヤ書9章6節(p1181)

序 論)イスラエルの国はソロモン王の後に、北王国イス
ラエルと南王国ユダに分かれました(BC930年頃)。以来
周辺の大国からの圧迫に苦しめられ、もともと四国ほどの
大きさしかない国が、さらに領土を失っていきます。ついに
北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、住民は捕らえ移
されてしまいました(BC723年頃)。それゆえこの地域は
「異邦の民のガリラヤ」(1)と呼ばれます。
 神の民が光を失って暗闇の中にいました。その頃、預言
者イザヤは、やがて救い主が来られることを語ります。

本 論)
1.闇の中に光を見る
 かつてイザヤは、光が見えないことに不安や苛立ちを感

じ、嘆きの声を上げたことがありました。「地を見やると
見よ、闇と苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる。」(イザヤ
5章30節p1176) 
 そして8章22節にも記されているように暗闇しか見え
ません。
 しかし、9章に入ると、預言者を取り巻く状況は変わり
ませんが、彼の語るメッセージは一変します。神様との交
わりを通して、霊的洞察は深められ、彼は光を見ました。
 イザヤは「異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。」(1)
と預言しました。これは、やがて闇の支配から解放される
との宣言です。神の救いの光は、暗黒の最も深い所から輝き
始めました。
 ガリラヤのナザレという小さい村で成長されたイエス様
は、30歳ごろ、荒野で悪魔の試みにあわれ、それに勝利
されました。(マタイの福音書4章1-11節p5) その後、
一度、ガリラヤに退かれました。それは福音宣教をガリラ
ヤから始められるためでした。(マタイ4章12-17節)
福音書記者のマタイはこれをイザヤの預言の成就だと語
ります。「これは、預言者イザヤを通して語られたことが
成就するためであった。」(マタイ4章16節)
 イエス様は復活された後も、弟子たちにご自分はガリラ
ヤに先に行ってあなたがたを待つと言われました。
 「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先
にガリラヤへ行きます。」(マタイ26章32節p57)
 主イエスがガリラヤの地を大切にされたように、神様は
苦しんでいる人々、虐げられている人々をお忘れになるこ
となく,顧みて下さっています。
 今の世も、闇のように思えたとしても、私たちが神様と
イエス様に心を向け、主を求めていくとき、希望と命の光
を見出すことができるのです。

2.救い主のみ姿を見る 
 続いて預言者イザヤはユダヤに対して長く続く略奪のた

め、収穫の喜びさえ忘れていた者たちに刈り入れの喜びが
来ると語ります。(3)
「ミディアンの日」(4)は、ユダヤの士師ギデオンが、3
万2千人のうちから勇気のある300人を選んで、ミディ
アン人を打ち破った日のことです。それは、人間の力では
なく神様の御力により頼んだゆえの勝利でした。
             (士師記7章1-25節p438)
 やがて神様のみわざによって平和がもたらされ、軍備が
すべて放棄される日が来ます。(5)
そのようなことは人間の目にはありえないことに思われ
ますが、6節でそれがメシア(救い主)誕生によって可能に
なると告げられます。
「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとり
の男の子が私たちに与えられる」と、イザヤは約700年
後にこの地上にお生まれになる救い主の御姿を見たのです。
「主権はその肩にあり」(6)とあるようにこのお方が世界
を統べ治められるのです。
 救い主は「不思議な助言者」英訳は「Wonderful
Counselor ワンダフル・カウンセラー」です。どんなと
きも、私たちと共にいて下さり、必要なときには相談相手
になって下さる方。私たち一人ひとりに対して大きな計画
を持たれ、聖霊とみ言葉によって導き手となって下さるお
方です。
 救い主は「力ある神」であり、神ご自身です。
「永遠(えいえん)の父」、「父」という語は神と神の民
イスラエルに対する関係を示しています。救い主はイスラ
エルの民にとってあわれみに満ちた保護者です。
 「平和」のヘブライ語は「シャローム」で欠けのない
満ちたりた状態を表す言葉であり、その根本は神との平和
です。
 争いは誰でも始めることができますが、平和をつくるこ
とは困難なわざです。しかし、「平和の君」であるキリス
トは、十字架と復活によって、神と人との間、人と人との
間に平和をもたらしてくださいます。
 「ダビデの王座に就いて」(7)、救い主はダビデの子孫
として生まれるという預言です。この通りにイエス様は、
ダビデの子孫である、ヨセフの子として誕生されました。

結 論)  「万軍の主の熱心」(7)、熱愛をもって、父なる
神様は私たちを愛され、その御約束通りに救い主を送って
下さいました。
 イスラエルのダビデ王朝の歴史は、約400年でした。
(BC1010年~586) 地上の王朝(王の支配)はいつか終
わるときが来ます。しかし、大能の神イエス・キリストは
主を信じ従う私たちと共に永遠にいて下さるのです。
このように、素晴らしい救い主が御誕生して下さった
ことを心から感謝してクリスマスを待ち望みましょう。

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列王記第Ⅱ 22章1~20節

「まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなた
の口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うこと
ができる。」
                   申命記30章14節 (p.370)

序 論)南王国ユダの二人の悪王(マナセとその子アモン)
は神様に従わず偶像礼拝をし、大きな罪を犯しました。
(21章)
 この章には彼らの後に即位したヨシヤ王(在位BC640
~609年)が断行した宗教改革について記されています。
彼の時代に起こったことと彼の言動を通して示されること
は…

本 論)
1.律法の書が発見される
 アモン王の悪政に心を痛めた人々によって、ヨシヤは

8歳で王に擁立されました。
 彼は「父祖ダビデのすべての道」(2)(神様に聞き従う道)
を歩み始めました。
 16歳の頃、国中の偶像礼拝をやめさせようとしました。
(歴代誌 第二 34章3-7節p808)
 26歳になったときヨシヤ王は、主の宮(神殿)がかなり
破損しているのを見ました。それで大祭司に修理するよう
に命じました。(3-7)
 主の宮で修理の作業がなされていたときどこからか「律
法の書」が発見されました。(8)(それは旧約聖書の「モー
セ五書」 (創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命
記)か、「申命記」一書だったと考えられている。)(8)
 先代の悪王のアハズ王やマナセ王に見つかって燃やされ
ないように、その頃の祭司が隠していたのかもしれません。
 律法の書を手渡された書記がそれをヨシヤ王の前で読み
始めました。(10)
 そこには神様の戒めと、戒めを破る人々に与えられるさ
ばきについて記されていました。
 律法の書のことばを聞いたヨシヤ王は、自分が律法を守
っていなかったことに気づき、自分の衣を引き裂いて悔い
改めました。(11)
 先祖たちがさんざん行ってきた偶像礼拝の罪のために、
神様が南王国ユダをおさばきになることがわかったからで
す。
 そして、重臣たちを集めました。これから自分たちがど
うすればよいのか、国のために主のみこころを求めるよう
に彼らに命じたのです。(12-13)

2.預言者を通して主のことばが語られる 
 王の命令を受けた重臣たちは、預言者のことばを聞こう

とします。彼らは当時の人々から信頼されていた女預言者
フルダのもとに行きました。(14)
 彼女は二つのことを告げます。
 まず、ユダヤの国の今までの王と民が主(神様)を捨てた
ため、主はこの国にわざわいをもたらされるということで
した。(15-17)
 次に、ヨシヤ王が悔い改めたので、彼が地上で生きてい
る間は主のさばきは下されないことでした。(18-20)
 この後、ヨシヤ王は将来のわざわいが起こらないように
徹底した宗教改革を始めていきます。
 王は国民を主の宮(神殿)に集めました。そして、自分で
律法の書を読み聞かせました。(23章1-2節p695)
 ヨシヤ王は、「…心を尽くし、いのちを尽くして主の命
令と証しと掟を守る」(23章3節)ことを神様の御前で誓い、
国民にも約束させました。
 さらにまだ残っていた偶像の祭壇や偶像に関する物を徹
底的に取り除きました。(23章4-24節)
 ユダの国民も王にならい、ヨシヤ王の在位中は、まこと
の神様に従うようになりました。

結 論)南王国ユダの人々は、与えられていた神様のことば
を忘れ、自分勝手に歩み続けて、ついに神様のさばきを宣
告されてしまいました。
 神様の御前に誠実に歩もうとしたヨシヤ王の時代に、
神殿で律法の書が見つかったのは、決して偶然ではありま
せん。
 神様は、心から神様を求める者に聖書のことばを明確に
示してくださるのです。
 今、神のことばである聖書は「あなたのすぐ近くにあり」
ます。( 申命記30章14節p370)
 聖書を開けばいつでも主のことばを聞くことができます。
 私たちが神様のことばを心に刻み、従うことを、神様は
願っておられるのです。
 「あなたのみことばは 私の足のともしび
  私の道の光です。」(詩篇119篇105節p1065)
 聖書の中に示されている神様のご愛と恵みを知り、みこ
とばに聞き従って歩みましょう。

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ヨハネの福音書9章26~41節

その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように
教えてください。その人はどなたですか。」イエスは彼に言
われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話してい
るのが、その人です。」彼は「主よ、信じます」と言って、
イエスを礼拝した。
        ヨハネの福音書9章36-38節 (p.201)

序 論)生まれつき目の不自由だった人が、主イエスによっ
て目が見えるようになりました。(7)
 しかし、パリサイ人たちは主を受け入れず、さらに彼を
尋問します。
 この後に彼に起こったことと主イエスがなされたこと、
そしてこられのことを通して示されることは…

本 論)
1.父なる神様のもとから来られた御子
 生まれつき目が不自由な人が見えるようになされたこと

は神の御子イエス様のみがなされたみわざでした。
 しかし、ユダヤ人たちはそれを認めませんでした。(26)
 彼は、皮肉まじりに彼らに答えます。(27)
 モーセを尊敬している彼らは自分たちはモーセの弟子で
あると答えましたが、主イエスのことは認めようとはしま
せんでした。(28-29)
 彼は自分の目を開いてくださった主は「神を敬い、神の
みこころを行う」お方だと証ししました。(30-31)
 さらに彼はひるむことなく、「あの方が神から出ておら
れるのでなかったら、何もできなかったはずです」(33)
と答えました。
 彼がいやされたという事実は誰も否定することができま
せんでした。
 ユダヤ人たちは、彼を罪人と決めつけ、外に追い出しま
した。(34)彼は当時の会堂を中心とした共同体から締め出
されてしまったのです。
 彼が証ししたように主イエスは父なる神様のもとから来
られたお方です。
 神から遣わされた主イエスを受け入れなかったことによ
って、彼らこそ大きな罪を犯してしまったのです。

2.イエス様を主と告白する
 両親のもとから離れ、ひとりぼっちになり、大きな試練

の中にあった彼を、主イエスは見つけ出されました。(35)
 主は彼に「人の子を信じますか」とお尋ねになりました。
 彼は、主イエスがご自分を指して「人の子」と言われて
いるのが分からず主に問いかけます。
 主は彼に対して、ご自身のことをはっきり示されました。
(36-37)
 彼は神様が主イエスと共におられ、働いておられること
を認めました。
 彼は、このお方が自分の目をいやし、見えるようにして
くださった神の御子、救い主であることがわかりました。
 それで、彼は「主よ、信じます」と主イエスに対する信
仰を告白し、主を礼拝しました。(38)
 主はさらに語られます。(39)
 パリサイ人のようなユダヤの宗教指導者たちは、自分た
ちは目が見える(神様のことがよくわかっている)と自負し
ていました。しかし、彼らは世の光として来られた
主イエスを受け入れなかったので、霊的に盲目であり、罪
の中にとどまったままであることが明らかにされました。
 彼らは主イエスを拒み、「私たちは見える」と言い張る
ことによって、彼らの罪はそのまま残ることになりました。
(41)

結 論)この目が開かれた人も、最初に主イエスにお出会い
したときは、主がどのようなお方か、よくわかっていませ
んでした。
 しかし、パリサイ人たちとのやりとりを通して、主のこ
とを思い起こし、主に対する見方がだんだんと変えられて
いきました。
 「イエスという方が…」(11)から「あの方は預言者です」
(17)という答えに変わりました。
 さらに「あの方は神から出ておられる…」(33)と言い、
ついに「主よ、信じます」と信仰告白に導かれました。
 今も、主イエスは聖霊と聖書のみことばを通して私たち
一人ひとりに働きかけ、語り掛けておられます。
 そして、私たちの心を変えてくださり、霊の目を開き
神の御子、救い主イエス様への信仰を与えてくださいます。
 私たちも、イエス様に「主よ、信じます」と信仰告白し、
罪赦され、救われた幸いを覚えます。
 主を感謝と喜びをもって礼拝し、日々、心新たにされて
歩んでまいりましょう。

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ヨハネの福音書9章11~25節

彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り
『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それ
で、行って洗うと、見えるようになりました。」…「あの方
が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っていま
す。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
        ヨハネの福音書9章11、25節 (p.199)

序 論)生まれつき目の不自由だった人が、主イエスによっ
て目が見えるようになりました。(7) そして、主イエスを
近所
の人たちに証ししたのです。(11)
 その後、起こったことを通して示されることは…

本 論)
1.神のもとから来られた方
 彼の証言を聞いた人々は、神様をあがめるどころか、

主に敵対するパリサイ人たちのところに彼を連れて行きま
した。(12-13)
 彼は「…それで、今は見えるのです。」と彼らに証しし
ました。審問に当たったパリサイ人たちの間に意見の対立
が生じます。(15-16)
 主イエスが「安息日を守らない」ので「神のもとから来
た者ではない」という人たちがいました。(16)
 (当時、安息日に人をいやすことは緊急の場合以外は禁じ
られていた。)
 逆に主が特別な方だと言う人もいました。(16)
 目をいやされた人は、再びパリサイ人たちに問われまし
た。彼は「あの方は預言者です」と答えました。(17)
 たとえパリサイ人たちが主イエスを受け入れないとして
も、主イエスは神のもとから来られたお方です。
 父なる神様が、御子イエス様を地上に送られたのです。
それは、主イエスを通して神様がすべての人を罪から救う
みわざを成されるためでした。
 ユダヤ人たちは、このいやされた男性が以前は本当に
目が不自由だったのか確かめようとしました。そのために
彼の両親を呼び出したのです。(18-19)
 (ここでの「ユダヤ人たち」は主イエスに敵対する人たち
のこと)

2.「一つのこと」を証しする
 この両親は、いやされた男性が「私たちの息子で、盲目

で生まれたこと」(20)は証言しました。
 しかし、どのようにいやされたのか、だれがいやしたの
かについては証言しませんでした。(21)
 それは、彼らがユダヤ人たちを恐れていたからでした。
当時、主を信じると告白すれば会堂から追放すると決めら
れてしまっていたのです。(22)
 彼らは息子に直接、聞いてください、と言います。(23)
 再び、目をいやされた男性本人からの聴取が始まりまし
た。(23)
 ユダヤ人たちはどこまでも、主イエスが罪人であると主
張しました。(23)
 しかし、彼は「あの方が罪人かどうか知りませんが、一
つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見
えるということです。」(25)と確信をもって証言しました。
これは、彼の身に起こった、打ち消しようのない事実だっ
たのです。
 さらに彼とユダヤ人たちのやり取りは続き、堂々巡りと
なります。彼らはついに「彼を外に追い出した」のです。(34)
 彼は会堂から追放され、そこで礼拝することができなく
なってしまいました。
 しかし、このような厳しい取り扱いを受けた後、彼は
真の信仰に導かれていきました。

結 論)「世の光」として来てくださった主イエスは、十字
架と復活によって罪と死と悪魔に打ち勝たれ、私たちを
罪から救い出してくださいました。(8章12節p194)
 私たちも、主イエスによって、闇から光へと移されまし
た。(使徒の働き26章17-18節p290)
 そして霊の目が開かれ、「イエスをキリスト(救い主)と
告白する者」(22)とされました。
 私たちにとっての「一つのこと」は、主イエスを信じて、
罪から救われ、新しくされたことです。
 みことばと聖霊によって主イエスとの交わりをさらに深
め、主イエスのご愛を証ししてまいりましょう。

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ペテロの手紙第一 1章1~9節

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられ
ますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、
イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことに
よって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせて
くださいました。
              Ⅰペテロの手紙1章3節 (p.465)

序 論)この書は、主イエスの十二弟子の一人である
ペテロが書いた手紙です。彼は、当時アジア(現在のトルコ
共和国の中部から北部)に散らされていたキリスト者たち
に向けてこれを書いたと考えられています。この章で、彼
は自分たちに与えられた救いについて語ります。ペテロの
教えを通して示されることは…

本 論)
1.試練の中での喜び
 ペテロはあいさつ(1-2)の後に、自分たちに与えられた救

いが素晴らしいものであることを教えています。まず過去
における救いを語ります。
 「新たに生まれさせて」(3)の原語の言葉は聖書ではこの
章だけに用いられています。(1章23節)(ヨハネ福音書3
章3節の「新しく生まれる」は、原語ではこの箇所とは別
の言葉が使われている)
 主イエスは十字架と復活によって私たちのために救いの
みわざを成してくださいました。私たちが「新たに生まれ
る」ことは、イエス様を神の御子、救い主と信じることに
よってもたらされます。
 そして、主の復活は私たちに「生ける望み」を持たせて
くださいました。(3)
 それは、地上の生涯にはいつか終わりがありますが、
主を信じる者は地上においても、やがて天の御国に移され
るときも永遠のいのちに生かされることです。
 神様が御子イエス様を通して成された救いは決して消え
ることはありません。(4)
 さらに「終わりの時に啓示さるべき救い」とは主イエス
の再臨のとき、私たちも復活の恵みにあずかり栄光の体を
与えられることです。その救いにあずかる神の民(私たち
キリスト者)は、現在もこれからも神の御力に守られている
のです。(5)
 当時の教会は、大きな迫害の中にありました。しかしそ
のような「さまざまな試練」の中にあっても大きな喜びが
与えられていました。(6)それは、「主にある喜び」(主か
らいただく喜び、主との交わりを通して与えられる喜び)
によるものです。

2.試練で試される信仰  
 この手紙の著者である使徒ペテロも当時のキリスト者

たちも、再び来られる主イエスを待望していました。
 ペテロは、アジア地方のキリスト者たちに、彼らがすで
に魂の救いを得ていること、その信仰は試されて、金より
も尊いものであることを思い起させました。(7、9)
「試練で試されたあなたがたの信仰」(7)は原文では「あなた
がたの信仰の試練」という意味の言葉が使われています。
キリスト者は、地上では様々な試練や苦しみがあったとし
ても、イエス・キリストの再臨のときに賛美と栄光と誉れ
に共にあずかることができるのです。 (7)
 この時代に救いにあずかった人たちは、ペテロの世代の
人たちとは違って、キリストのなさったことを直接、目で
見たことはありません。しかし聖霊により「見ないで信じ
る信仰」(ヨハネ福音書20章29節p.)が与えられ、
キリストを愛し、主の恵みと喜びにあずかっていました。(8)
 主のご愛と恵みにあずかることが神様を愛し、隣人を愛
する歩みにつながります。
 新しく生まれた者たちは、信仰の結果である「たましい
の救いを得ている」から苦難の中にも喜びにあふれていま
す。(9) これこそ、聖霊によって主イエスを信じ従ってい
る者に与えられる恵みです。(ここでの「たましい」は「霊
魂」という意味ではなく、人間一人ひとりの生命全体を指
す言葉として用いられている)  

結 論)主イエスを信じ、従う者はすでに永遠のいのちに生
かされています。
 そして、主の再臨のときに与えられる恵みを待ち望みつ
つ歩みます。
 「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、
これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」
    (コリント人への手紙 第一 13章13節p346)
 私たちも信仰の先達にならい、主の再臨を待ち望む希望
を持ち、主を愛して歩んでまいりましょう。

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ヨハネの福音書9章1~11節

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両
親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」
ヨハネの福音書9章3節(p199)

序 論) 前章でイエス様は「わたしは世の光です。わたし
に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光
を持ちます」(8:12)と言われました。その例証と言
える出来事をヨハネはここで伝えています。

1、いのち光を与えられる主
 イエス様は、エルサレムで生まれつき目が不自由で、物
乞いをしている人に出会いました。(1)この直前の8:
59を見ると、イエス様はユダヤ人たちに石打ちに遭いそ
うになって「身を隠して、宮から出て行かれ」ました。ご
自身の命の危険を感じるような場面を通った後も、イエス
様は、当時、何の価値もないと低く見られ蔑まれていた物
乞いの盲人に心をかけられました。
 イエス様が彼をじっと見ておられることに気付いた弟子
たちは、イエス様に質問しました 。(2)  彼らの言葉には、
当時のユダヤ社会の考え方が表れています。彼らは、誰か
が罪を犯した結果、この人の目が不自由なのだと考えてい
ました。
 しかし、イエス様は弟子たちの問いかけに、誰かの罪の
結果ではないとはっきりと答えられ「この人に神のわざが
現れるためです。」(3)と言われました。人は何故こうなっ
たのかと原因を求めますが、イエス様は神様の愛の眼差し
が彼に注がれていることを見ておられたのです。
 一見、不幸に思えることを通しても、結果的には、彼が
神の栄光を見ることができるようにしてくださいました。
そして、イエス様こそがまことの世の光であることを人々
に示そうとされたのです。
 「わたしを遣わされた方」(4)は、イエス様を地上に送ら
れた父なる神様のことです。「昼のうちに」(4)は、ご自身
が世にいる間に、という意味です。「夜が来ます」(4)は、
イエス様が弟子たちのもとから去って行かれ、十字架にか
かられることを暗示する言葉です。
 イエス様がこのとき「わたしたちは…」(4)と言われたよ
うに弟子たちにも、イエス様と共になすべきわざ(宣教の
使命等)がありました。
 そして、イエス様は「わたしが世にいる間は、わたしが
世の光です。」(5)と仰いました。イエス様ご自身が、この
闇の世を照す光として、この地上に来てくださったのです。
 イエス様は、今も、私たちの行くべき道を照らし、導い
てくださる光です。それと共に、私たちも主の弟子である
ことを自覚し、そのわざに励んでいくことを期待されてい
るのです。

2、神のみわざが現れた人
 イエス様は、唾(つば)で泥を作って盲人の目に塗られま
した。(6)続いて、「シロアムの池」に行って、洗うように
命じられます。「シロアム」はヘブライ語で、「遣わされ
た者」という意味です。これは、主が、父なる神様から遣
わされたお方であることを示す言葉でした。そして、この
男の人もイエス様によって「遣わされた者」として、主の
言われた通りに従い、池に向かいました。(7)
 イエス様の言葉通りに彼が目を洗うと、目が見えるよう
になりました。(7) 彼は生まれて初めて、その目で神様の
造られた世界を見ることができました。
 長年、同じ場所で物乞いをしていたこの人を周囲の人た
ちはよく知っていました。それゆえ、彼の身に起こったこ
とを不思議がり、また「…おまえの目はどのようにして開
いたのか。」となぜそうなったのかを知ろうとしました。
(8-10)
 彼は「イエスという方が…言われ…それで、行って洗う
と見えるようになりました。」(11)と簡潔に事実を
伝えま
した。彼はここでは「イエスという方」と言っていますが、
この後、イエス様への見方はだんだんと変えられていきます。
 彼は、イエス様のことを「預言者」(17)、次に、「神か
ら出」た人(33)、最後には 「主よ、信じます。」と信仰
を告白し、イエス様を礼拝しました。(38)
 彼の上に神のみわざが現わされ、彼は肉眼が開かれただ
けでなく、霊の目も開かれたのです。

結 論) 私たちを取り囲む現実は戦争や虚偽、混乱、様々
な深い闇を思わせるものです。しかし、ここに、神様のわ
ざが始まろうとしています。
 この目の不自由な人がイエス様の言葉を信じ、従い、行
なっていった時に、神様のわざがなされていきました。
 「夜が来」る(4)とイエス様は言われました。私たち
は何もできなくなる夜、私たちを囲む闇を恐れます。しか
し、私たちのイエス様は今も私たちと共に在ます「世の光」
です。
 この内なる光を持っているなら、闇は怖くはありません。
光によって闇は消え去ります。
 この光を持ち続け、「私たちを神の御名が崇められるた
めに『世の光』としてお用いください」と祈りつつ歩んで
参りましょう。

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詩篇92:1~15

正しい者は なつめ椰子の木のように萌え出でレバノンの
杉のように育ちます。彼らは 主の家に植えられ
  私たちの
神の大庭で花を咲かせます。彼らは年老いてもなお 実
を実らせ
   青々と生い茂ります。
           詩篇92篇12-14節(p1032)

 

序 論) この詩篇はバビロン捕囚から解放されユダヤの地
に帰還したイスラエルの民が、再建された神殿で、安息日
ごとに神様を礼拝するときに用いられた歌だと推測されて
います。(神殿完成はBC516年頃)
 神様への感謝と賛美が記されています。
 この詩篇を通して示されることは…

1.神様の大きなみわざ
 「朝」と「夜ごと」は、黙想、祈り、賛美の時間を指し
ています。(2)
 そのときに神様の恵みと真実が告げられます。(2)
 「あなたのなさったこと」(4)は、神様がイスラエルの民
になさった救いのみわざや悪に対する正しいさばきのこと
です。
 ここでの「無思慮な者」や「愚か者」とは、神様に心を
向けない人たちのことです。(6)
 彼らは神様のみわざやご計画、正しいさばきが分からな
いのです。
 この宇宙の広大さ、自然の美しさ、人体の不思議な働き
などにも神様のみわざの偉大さが現わされています。(5)
 「不法を行う者」(7)(神様に心を向けず、律法に従わな
い者)は、花は咲かせても、良い実を結ぶことはできません。
一時的には上手くいったり、栄えているように思えたとし
ても最後には滅びてしまうのです。(7、9)
 「永遠にいと高き所におられる」(8)神様を知り、畏れ
従うことが神様の願われることであり、祝福の道なのです。

 2. 神様に信頼し、感謝する者
 10節からの後半は、神様に信頼し歩む者の確かな姿が
記されています。
 「私の角」の「角」は力と栄光の象徴です。(10)
ここでの「私」はイスラエルの民や信仰者を代表していま
す。
 「みずみずしい油」は聖霊の象徴だと受け止めることが
できます。(10)
 神様が正しいさばきを成されることを詩人や信仰者たち
は見聞きします。(11)
 「なつめ椰子(やし)」や「レバノンの杉」(12)は「青草」
(7)とは反対に、丈も高く、寿命も長い樹木です。
 「なつめ椰子」は荒野でも成長します。「レバノンの杉」
は力と確かさの象徴です。
                   (エゼキエル書31章3-9節p1469)
 それらにたとえられた「正しい者」(12)(神様を信頼し、
従う者)は、主の家に植えられ、神の大庭で花を咲かせる
と歌います。(12) 
 「主の家に植えられる」とは移植され、手入れされるこ
とです。(詩篇1篇3節p934)
 それは信仰者が神様との豊かな交わりの中で成長してい
くことを示しています。成長の力の源は神様にあり、
神様が、喜びと希望の実を結ばせてくださいます。
 彼らは年老いても豊かに身を結ぶのです。(14)
 「主は正しい方」(15)は、神様が正しくさばかれるお方
であり、神様に信頼する者を豊かに祝福してくださるお方
であることを表しています。

結 論)主イエスを信じる私たちに神様は「みずみずしい油」
(10)(聖霊)を注いでくださいます。
 そして、聖霊によって主イエスは私たちと共に歩んで
くださっています。
 私たちはキリストにあって「新しく造られた者です」
    (コリント人への手紙 第二 5章17節p361)
 主イエスと共に歩む者は、日々、新たにされていくので
す。     (コリント人への手紙 第一 15章58節p352)
 父なる神様と御子イエス様との豊かな交わりを持ちつつ
私たちがそれぞれに置かれた場所で主のわざに励んでまい
りましょう。

 (参考)
  『老いを創(はじ)める』日野原重明著
                     (1911-2017)

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ヨハネの福音書8章48~59節

「…あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見る
ようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、
喜んだのです。…イエスは彼らに言われた。「まことに、ま
ことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前か
ら、『わたしはある』なのです。」
        ヨハネの福音書8章56、58節(p199)

 

序 論) この章で「わたしは世の光です」(12)と言われた
主イエスはパリサイ人たち、ユダヤ人たちと対話を続けら
れ、ご自身のことを証しされました。
 主は再びアブラハムについて語られることを通して、
さらにご自身のことを証しされます。
 この箇所を通して示されることは…

1.主のことばを守る
 ここでユダヤ人たちが主イエスに対して言っている「サ

マリア人」(48)は、偶像礼拝をしている者という意味の蔑
称として用いています。さらに主のうちに悪霊が働いてい
る、と言いました。
 父なる神様を敬い、みこころに従っておられる主を卑し
めることは、神様を侮ることになります。(49)
 主はご自分の栄光をお求めになりませんが、父なる神様
が主に栄光をお与えになります。そして、主を卑しめる者
をさばかれます。(50)
 主はさらに語られます。(51) 主のことばを守るとは、
みことばを聞き、みことばが証ししている主を信じ、
従うことです。
 そして、ここでの「死」は地上の生涯の終わりではなく
神様の交わりが断たれる「霊的な死」のことです。
                   (ヨハネの福音書5章24節p186)
 主イエスを信じ、従う者は、永遠のいのちに生かされる
のです。
 しかし、ユダヤ人たちは主の言われていることを悟るこ
とができませんでした。アブラハムも預言者たちも死んで
いるのに、そのような途方もない発言をする主を彼らは悪
霊につかれた者だと非難しました。(52-53)

 2. 「わたしはある」と言われる方 
 主イエスは彼らに言われます。(54-55)

 彼らは律法を守ることによって自分たちは神に対して忠
実であると思っていました。しかし、彼らは神様がどのよ
うなお方であるかを、本当には知ってはいなかったのです。
それに対して、主イエスは「この方(神様)を」知っておら
れました。
 続いて主はユダヤ人たちの父祖アブラハムについて語ら
れます。(56)
 「わたしの日」とは主イエスが地上に来られ、救いのみ
わざを成されるときのことです。
 アブラハムは神様の語りかけを聞き、生まれ故郷を離れ、
神様の示される地へ旅立ちました。彼は神様の約束を信じ
て旅立ったのです。
                 (創世記12章1-4節p17)
 アブラハムはやがて救い主(キリスト)が来られることを
待ち望みつつ神様を仰いで地上の生涯を歩みました。そし
て、キリストの日(主の来臨のとき)に、それを見て喜んだ
のです。
          (へブル人への手紙11章13節p452)
 主の言葉を聞いたユダヤ人たちは反論します。(57)
 主は彼らに答えられました。(58)
「わたしはある」(58)(ギリシア語では「エゴー・エイミ」。
英語ではI am.(アイ・アム))は神様がモーセにご自身の名を
答えられたときに言われた言葉でもありました。
               (出エジプト記3章14節p102)
 主イエスの言葉を聞き、我慢できなくなったユダヤ人た
ちはその場で主に石を投げつけようとしました。しかし、
このときはまだ主が十字架にかかられる時は来ていなかっ
たのです。主は難を避け、彼らから「身を隠して、宮から
出ていかれ」ました。(59)

結 論)主イエスの58節のみことばは、主が神ご自身であ
ること、永遠に存在されるお方であることの宣言でした。
 現代でも、主イエスを偉大な人間だと思う人たちは多い
のですが、神の御子であると信じる者は少数です。
 しかし、福音記者ヨハネは「イエスが神の子キリストで
あることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、
イエスの名によっていのちを得るため」にこの書を書きま
した。           (ヨハネの福音書20章31節p229)
 主イエスは神の御子であるからこそ、十字架にかかられ
復活され、私たちの救いを成し遂げられました。そして、
罪の赦しを宣言されたのです。
 「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わ
ることがありません。」
            (へブル人への手紙13章8節p456)
 私たちと永遠に共にいてくださる神の御子イエス様に
従い、歩み続けましょう。

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ヨハネの福音書8章39~47節

「しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがた
はわたしを信じません。あなたがたのうちのだれが、わたし
に罪があると責めることがきますか。わたしが真理を話して
いるなら、なぜわたしを信じないのですか。 神から出た者
は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞
き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからで
す。」
         ヨハネの福音書8章45-47節(p198)

序 論) 主イエスは、ご自分が神の御子、救い主であるこ
とを証しされました。さらにユダヤ人たちと対話を続けら
れます。
 主が語られたことを通して示されることは…

1.父なる神様が遣わされたお方
 ユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子孫であるこ

とを誇りとしていました。(39)
 主イエスは、「あなたがたがアブラハムの子どもなら…」
と言われます。(39)
 かつてアブラハムは地にひれ伏して神様からの使者を
迎えました。(創世記18章1~8節p27)
 そのアブラハムの子孫なら、彼らは神様が遣わされた主
イエスを喜んで迎えるはずでした。しかし、彼らは主を受
け入れることができませんでした。(40)
 彼らには自分たちの父は神様だという自負がありました。
(41後半)(イザヤ書63章16節p1275)
 しかし、このとき主を亡き者にしようとしていた彼らは
「罪の奴隷」(8章14節)であり、霊的にはアブラハムの
子ども(子孫)でもなく、神の子どもでもない状態に陥って
いたのです。
 彼らは、主イエスの出自に対して悪意をもって語ります。
(41節後半)
 それに対して主イエスは、改めて父なる神様がご自分を
遣わされたことを語られました。(42)
              (ヨハネの福音書7章16節、28節p193)

 2. みことばを通して真理を知る
 彼らは主イエスの語られるみことばを受け入れ、従うこ

とができませんでした。(43)
 彼らは主のみことばを、心を開いて聞くことができなか
ったのです。それゆえに主が語っておられる神様のあわれ
みによる救いの真理を知ることができなかったのです。
 自分たちがアブラハムの子孫であるという民族的誇り
(8章33節)のため、ユダヤ人たちは主のみことばに耳を
ふさいでしまいました。
 主はご自分の命を奪おうとたくらむユダヤ人たちが、真
のアブラハムの子孫ではなく、「悪魔である父から出た者」
であることを指摘されました。(44)
 神の子であるはずの彼らが、このときは悪魔の支配下に
ありました。(44)
 「悪魔は初めから人殺しで、…」は、最初の人アダムの
子カインが弟のアベルの命を奪ったことを指して言われて
います。(44)(創世記4章8-9節p6)
 このときのユダヤ人たちは主イエスの御前にカインの立
場に置かれていました。(創世記4章7節p6)
 彼らが神様を仰ぎ、自分の罪を悔い改め、主イエスに救
いを求めることを主は願われ、彼らを招いておられたので
す。
 主イエスはみことばを通して真理を語られたのに彼らは
真理を受け入れませんでした。(45-46)
 彼らは真理に聞き従わないことによって、自分たちが
「神から出た者でなく」(47)、偽りのうちにとどまってい
ることを自ら立証してしまったのです。

結 論)私たちは自分の力で罪の奴隷の状態から脱すること
はできません。
 罪なきお方、主イエスだけが私たちをそこから救うこと
ができます
 御子イエス様は、私たちを悪魔の支配から解放し、罪か

ら救い出すために父なる神のみもとから地上に来てくださ
いました。そして、十字架と復活によって救いを成し遂げ
てくださったのです。
 主イエスのみことばに触れ、主を信じ受け入れた私たち
は救いの恵みにあずかりました。
 神様は、私たちの心を、聖霊とみことばによってきよめ
続けてくださるのです。
 私たちは日々の生活の中で、自らの言行を通して、心の
汚れ、内なる罪を示されるときがあります。
 その時こそ悔い改め、心を神様に向け、主イエスの十字
架を仰ぎましょう。
 十字架の血と聖霊による罪の赦しときよめの恵みにさら
にあずかってまいりましょう。

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マルコの福音書10章46~52節

講壇交換礼拝 田上篤志師(宇都宮共同教会牧師)

「喜び踊りながら」

  • エリコの道端に座って、土ぼこりで顔も体もほこりまみれになって物乞をしていたバルティマイの「ダビデの子イエス様、私をあわれんでください」という叫び声は、道行く多くの人々にはうるさいだけのものでしかありませんでした。ですから人々は彼を黙らせようとしました。しかしキリストは「あの人を呼んできなさい」とおっしゃいました。それを聞いて心ある人は喜びながらバルティマイのところに駆け寄って告げたのでした。「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」

    バルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がって、キリストのもとに来ました。この物乞いが身につけていた上着は、実際には大きな布のようなものであり、夜になれば寝巻きとなり、物乞いをするときには、道端に座るための敷物の役目も果たしました。そのような上着は、バルティマイにとっては唯一の財産でした。その上着を脱ぎ捨ててキリストのところに喜び踊りながら来たのです。

    マザー・テレサが『淋しさ』についてこんなことを言っています。「私が思うのに、この世で一番大きな苦しみは、ひとりぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。また、温かい真の人間同士のつながりとはどういうものであるかも忘れてしまい、家族や友人を持たないが故に愛されることの意味さえ忘れてしまった人の苦しみであって、これはこの世で最大の苦しみと言えるでしょう」(「マザー・テレサ 愛と祈りの言葉」渡辺和子訳PHP) マザー・テレサが言うこの世で一番大きな苦しみを毎日感じながらバルティマイも生きていました。そこに、「イエスさまが、あなたのことをお呼びだぞ」という福音が聞こえてきたときバルティマイは、まだ願いを聞いてもらう前から、キリストが自分を呼んでくれたという喜びに満たされたのです。

    その後に続く、二人の対話については、福音書がシンプルに記していることをそのまま聴きとれば十分でしょう。その上で注目したい一点はバルティマイが癒された後にとった行動を聖書がこう記していることです。「すぐに見えるようになり、道を進むイエスについて行った」 

    <参考>「なお道を進まれるイエスに従った」(協会共同訳)

    この出来事のしばらく前に「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」と真面目な求道者としての質問をキリストにした若者がいました。キリストはこの若者に対して、持ち物をすべて売り払って貧しい人に施して従ってくるようにと説きましたが、若者はキリストに従うことができずに顔を曇らせて去って行きました。このことでこの若者に対するキリストの慈しみが変わることはなかったでしょうけれども、キリストにとってはやはり残念なことではあったに違いありません。

    そうした出来事の後、ひとりの物乞いをしていた盲人が、呼びかけに対して踊りながら喜んでやって来て、そのまま従う者となった。このことはキリストにとって喜びとなり、また「道を進むイエス」にとって、すなわち十字架への道を進まれているキリストにとって慰めにもなったに違いありません。

    キリストに従うには……。大切な持ち物や自分の楽しみすべて捨てることで、従うことができるようになるというものではありません。もし、そうしなければならないとすれば、私たちにしても、あの富める若者と同じような結果になってしまうでしょう。そこで、よく考えて思い出したいのです。私たちも淋しい時があったのではありませんか。自分が惨めで心を暗くしている時があったのではありませんか。そんな私たちにも、いろいろな形で福音の声が届いたのではないでしょうか。「お呼びだよ」と。その時の喜びを想い起すこと、それがキリストに従うことへの一歩となります。ですからバルティマイが踊って表した喜びを、私たちは聖歌『キリストには代えられません』をうたいながらあらわそうではありませんか。     
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