ヨハネの福音書12章12~19節

その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
       ヨハネの福音書12章12、13節 (p208)

序 論)主イエスと弟子たちは、ベタニアからエルサレムに向かわれます。
 週の初めの日(受難週の日曜日)、主はエルサレムに入城されました。
 そのときに起こった出来事を通して示されることは…

本 論)
1.旧約聖書に預言されていた救い主
 定められた受難の時が来て、主イエスはエルサレムに来られました。
 祭りに来ていた大勢の群衆は、「なつめ椰子の枝を持って」主イエスをお迎えに出て行きました。(12-13)
 このことは旧約聖書の預言の成就でもありました。
  13節には詩篇118篇25-26節(p1059)の言葉が引用されています。
 (「ホサナ」はへブル語で「お救いください」の意味であるが、転じて賛美の叫びの定型句となった
『聖書新改訳2017の脚注より』)
 「主の御名によって来られる方」(13)はメシア(救い主)を意味する言葉です。
 救い主であり王であるお方が来られる日の出来事についてゼカリヤが預言していました。(15)
   (ゼカリヤ書9章9節p1621
     「柔和な」と訳されている言葉は「へりくだった、貧し  
  い、卑賎(ひせん)な、惨めな」等の意味を含む)
    「娘シオン」(15)はエルサレムとその民のことです。
 主イエスはろばの子に乗ってエルサレムに入城されました。(14)
 これはこの預言の言葉の成就でもありました。
 軍馬ではなくろばの子に乗られることを通して、主はご自身が「平和の王」として来られたことを示されました。
                  (ゼカリヤ書9章10節p1621参照)
 このようにイエス様は旧約聖書に預言されていた救い主としてエルサレムに来られたのです。

2.真の王として来られたお方
 この時、主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに来られたことの意味を弟子たちはまだ分かっていませんでした。(16)
 ここでの「栄光を受けられた後」は、主イエスが十字架で死なれ、復活された後、という意味です。
 主の復活の後、弟子たちがこの出来事(主のエルサレム入城)を思い出すまで、その意味が弟子たちにも正しく理解されていなかったのです。
 主イエスがラザロをよみがえらせられたとき、主と一緒にいた群衆はそのしるしを目撃しました。
           (ヨハネの福音書11章43-45節p206)
 その後、彼らは主が成されたことを証しし続けていました。(17)
 群衆がエルサレムに来られた主イエスを出迎えたのは、彼らがこの証しを聞いたからでした。(18)
 主イエスを亡き者にしようと機会を伺っていたパリサイ人たちは群衆の様子を見て慨嘆しました。(19)
 群衆の多くは、主イエスを偉大な民族的英雄だと考えました。彼こそイスラエルをローマの支配から解放してくれる軍事的な勝利のメシアであると期待しました。
 しかし、このときから数日後、彼らにとってそれが全く期待はずれであったことが示されます。
 主イエスは神から遣わされた真の救い主、平和の王として入城されたのです。

結 論)主イエスがエルサレムに入城されたことを記念してこの日は「棕櫚(しゅろ)の主日」と呼ばれるようになりました。
 この週の金曜日、主イエスは十字架にかかられます。主はすべての人を罪から救い、永遠のいのちに生かす救い主としてこの地上に来てくださいました。そして、十字架と復活によって救いを成し遂げてくださったのです。
 ろばの子が主イエスをお乗せして歩んだように、私たちも主イエスとともに信仰の道、いのちの道を歩んでまいりましょう。

(参考)
 ヨハネの福音書12章13節「なつめ椰子の枝」
「しゅろの木の枝」(新改訳)、「しゅろの枝」(口語訳)
「なつめやしの枝」(新共同訳、協会共同訳)
 英訳:palm branches (NIV)
 ギリシヤ語原文のニュアンスを英語で表わすと
 the palms of the palms
    (当時、「なつめやしの小枝」を指す熟語だったのではという説がある。)
  『ちいろば先生物語』(三浦綾子著)
   榎本保郎牧師(1925-1977)

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ヨハネの福音書12章1~11節

一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。…イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。…」
       ヨハネの福音書12章3、7節 (p207-208)

序 論)ヨルダン川の東、荒野に近い地方におられた主イエスと弟子たちは過越の祭りの六日前にベタニアに来られました。(11章54節)(1)
 主はマルタ、マリア、ラザロの家に滞在されます。
 夕食のときに起こった出来事を通して示されることは…

本 論)
1.主への信仰と献身
 マルタは夕食の準備をしていました。食事の席に主イエスがよみがえらせられたラザロもいました。(2)

 そのときマリアは高価なナルドの香油を惜しげもなく、主イエスの御足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐったのです。(3)
 香油の香りは家中に広がりました。
 この香油は「三百デナリ」(5)、およそ労働者の一年分の収入に相当します。
 十二弟子の一人、イスカリオテのユダがマリアの行為を非難します。(4-5)
    しかし、会計係であったユダ自身が金銭的な罪を犯していました。(6)
 貧しい人々に施しをすることは神様が願っておられる大切なことです。(申命記15章11節p343)
 しかし、このときマリアはそんなに高価なものを惜しみなく主にささげました。
 ではこのとき、なぜ彼女はそのことができたのでしょうか。
 一つには、死んでしまったラザロがよみがえった喜び、感謝を自分にとって一番大切なものをささげることで表したのです。

2.主の葬りへの備え
 もう一つの理由は、主イエスのみことばに示されています。主イエスは、集まっていた人々に「… マリアはわたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」(7)と言われました。    (当時、遺体に没薬などを塗る習慣があった。)

 マリアはそれまでも主の足もとにひざまずき、みことばに熱心に聴き入っていました。                 (ルカの福音書10章39節p136)
 また弟ラザロの死に直面したとき、主の足もとにひれ伏し、嘆きました。
(ヨハネの福音書福音書11章32節p206)
 彼女はこれまでに主イエスの語られたことや主との交わりを通して、主の死を予感していたことでしょう。誰が知るよりも早く主の十字架の死を察知していました。
 彼女の香油注ぎは、主イエスに対する信仰と献身のしるしであり、感謝と愛の表れでした。
 主はマリアがご自分の葬りのために香油を取っておき、ここでささげてくれたことを喜ばれたのです。(7-8)
 過越の祭りのためにエルサレムに来ていたユダヤ人たちは主イエスがおられると聞いてベタニアにやって来ました。
 それはよみがえったラザロを見るためでもありました。 (9)
 祭司長たちは、多くのユダヤ人たちが主イエスのもとに行こうとする理由がラザロのよみがえりであることを知り、主だけでなくラザロのいのちをも奪おうと相談しました。(10-11)

結 論)主イエスが十字架と復活により救いを成し遂げられた後、福音は使徒たちによって全世界に伝えられていきました。
 マリアがここでしたことも福音書に記され、全世界に伝えられています。
                 (マタイの福音書26章13節p56)
 彼女が香油を注いだことは、彼女のできる限りのささげものでした。
 たとえ小さなものであっても、主の恵みとご愛に応答して感謝してささげるものを主は用いてくださり、ご自身の栄光を現わしてくださいます。
 主は私たちのつたない信仰と献身をも受け止め、生かして用いてくださるのです。
 マリアの信仰にならい、主との交わりを深め、ご愛と恵みに応答して、主を愛し従ってまいりましょう。

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ヨハネの福音書11章45~57節

しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。
一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
           ヨハネの福音書11章49-52節 (p207)

序 論)ベタニアに着かれ、マルタとマリアに会われた主イエスはラザロをよみがえらせられました。(17-44)(第七のしるし)
 このしるしにより多くのユダヤ人が主を信じまし。 (45)
 しかし、祭司長とパリサイ人たちは、主を亡き者にしようと画策します。
 彼らの言動を通して示されることは…

本 論)
1.自分たちの特権を守ろうとする人々
 主のなさったことを聞いた祭司長とパリサイ人たちは「最高法院」を召集しました。(47)

 ユダヤ人指導者たちは、主イエスが民衆の人気を集めてそれが暴動に発展すること、そのためにローマ軍が介入して、自分たちの立場が危うくなることを恐れました。(48)
 彼らにとって、主イエスのみことばやみわざが正しいかどうかではなく、自分たちの宗教的・政治的・社会的特権が守られるかどうかが判断の基準でした。
 彼らはどこまでも「自分たちは正しい」と思い込んでいました。どんな明白なしるしを示されても彼らは頑なになるだけでした。
 会議の議長役を務めていたのは、大祭司カヤパでした。彼は一つの策を提案します。(49-50)
 「一人の人」(50)は主イエスを指しています。
 自分たちの利益を守り、国民全体が滅びを免れるためにも主のいのちを奪うほうがよいと言ったのです。

2.すべての人の身代わりとして 
 このカヤパのことばは、無意識でなされた真理の預言となりました。(51-52)    カヤパの提案は議会の承認を得ました。(53)

 主イエスがラザロをよみがえらせられたことは、ユダヤ当局者たちが主を亡き者にするという最終決定に導く大きな要因となったのです。
 主イエスが十字架にかかられる時が刻々と近づいて来ました。
 しかし、彼らはすぐに、その目的を果たすことはできませんでした。主イエスは弟子たちとともにエフライムという町に行かれ、そこに滞在されたからでした。(54) (エルサレムの北東約20㎞の地点にある)
 神様が定められた主が十字架にかかられる時は迫っていましたが、まだ来てはいなかったのです。
 「過越の祭り」が近づき、多くの巡礼者たちが、ぞくぞくと各地から上京していました。(55)
 その人々は、エルサレムの神殿に集まって、熱心に主イエスを捜しました。(56) 主がラザロをよみがえらせられた知らせはユダヤ国内に広く伝わっていたのです。
 宗教指導者たちは、エルサレムで主イエスを捕えようとしました。(57)
 それで巡礼のユダヤ人たちは、主イエスが祭りに来られるかどうかを、互いに語り合っていたのです。(56)

結 論)大祭司カヤパのことばは主イエスが「国民」(ユダヤの民)だけでなく、「散らされている神の子たち」(直接的には外地に離散しているユダヤ人の意味だが、福音書記者のヨハネは「異邦人」のことを暗示して記している)のためにも死なれることを預言していました。
 主イエスは、すべての人を罪による滅びから救うためにすべての人の身代わりとなって十字架にかかられたのです。(ヨハネの福音書3章16節p180)
 「一人の人」主イエスの十字架の死と復活によって、私たちは義とされ、永遠のいのちに生かされています。(ローマ人への手紙5章15-19節p305)
 このレントの期間、主の受難と十字架による救いの恵みをさらに覚え、イースターを待ち望みつつ過ごしましょう。

 (参考)
 新聖歌102 「主はいのちを」
  作詞者 フランシス・ハヴァガル(1836-1879)    彼女が22歳のとき、留学先のドイツのデュッセルドルフの美術館で一枚の絵を見た。シュタンバーグという画家の絵で、いばらの冠をかぶせられ十字架に架けられた主イエスを描いた作品だった。その絵の題が「エッケ・ホモ(見よ、この人を!)」だった。そして、その題の下にラテン語で「私はあなたのためにこのことをした。あなたは私のために何をしたか」と書かれていた。(「見よ、この人だ。」ヨハネの福音書19章5節p224)
彼女は、この絵と、この言葉を思い出して、この讃美歌を作ったと言われている。

 ニコラス・フォン・ツィンツェンドルフ(1700-1760)
                     ドイツ ドレスデン出身
        モラヴィア兄弟団監督

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ヨハネの福音書11章28~44節

そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。 あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」
           ヨハネの福音書11章41-43節 (p206)

序 論)ベタニアに着かれ、マルタとのやりとりの後、主イエスは妹のマリアを呼ばれます。(28)
 マリアは主のもとへ行きました。(29-31)
 彼女や一緒に来た客人のユダヤ人たちの様子を見られた後、主が言われ、成されたことを通して示されることは…

本 論)
1.霊の憤りを覚え、涙を流された
 マリアは、マルタと同じことを言い、ラザロの死を悲しみ嘆きます。(32)(21節参照)
 マリアは主の御前に泣き伏しました。一緒に来たユダヤ人たちも、彼女に同情して泣きました。(33a)
 主イエスはそれをご覧になり、「霊の憤りを覚え、心を騒がせ」られました。(33b)
 主は人を悲しみと絶望に陥れる力を持つ死そのものに対して憤られたのです。
 主はラザロの墓に行こうとされます。人々は主をそこへ案内しました。(34)
 主は涙を流されました。(35)
    (この35節は、聖書の中で一番短い節。)
 それは悲しみの涙です。主イエスはご愛の深さゆえに、悲しみを表されました。主は、ラザロの死に涙されたのです。
 そのご様子を見た人々は感動を覚えます。(36)
 しかし、主に対して批判的な人たちもいました。(37)
 主は再び、心のうちに憤りを覚えられながら墓に来られます。(38a)

2.ラザロに御声をかけ、よみがえらされた 
 当時のユダヤの墓は、岩を掘った横穴で、入り口を石でふさいでありました。(38b)
 主イエスは「その石をとりのけなさい」と言われました。
 それを聞いたマルタは驚いて反対します。(39)
 このとき、彼女はまだ主イエスがしようとしておられることを理解していませんでした。
 主は彼女に、前に言われたみことばを思い起こさせるように語られます。(40)    (ヨハネの福音書11章4節p204)
 主が神の栄光を顕されるときが来たのです。
 石が取りのけられたとき、主イエスは目を上げて父なる神様に祈られました。(41-42)
 その御姿を見た人々は、主がいつも父なる神と一つであり、父なる神から御力を受けておられることを示されました。
 主は祈りを通しても、ご自分が父なる神様から遣わされた神の御子であり、ご自分を信じることは神を信じることにほかならないことを証しされたのです。
 主は祈り終えられると、「ラザロよ、出て来なさい」と権威ある御声で命じられました。(43)
 ラザロは、主イエスを信じる者が永遠のいのちを与えられる「しるし」として、死者の中からよみがえりました。(44)
 ラザロは、巻かれていた布や布切れをほどいてもらい健康なからだになって、家に帰りました。

結 論)主イエスは、ラザロをよみがえらせることを通して、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネの福音書11章25-26a節p205)とのみことばが真実であることを示されました。
 やがて、主はご自身の十字架の死と復活によって、ご自分がいのちの主であられることをはっきりとお示しになりました。
 このいのちの主であるイエス様を信じる者は永遠のいのちに生かされます。
 主を信じる者は、この地上の生涯を終えた後に永遠のいのちにあずかるのではありません。主を信じたそのときから主にある新しいいのちに生きる者とされるのです。
 主が墓の中にいたラザロに呼び掛けられたように、主は今も私たちにもご自分のもとに来て、信じる者となることを願って御声をかけておられます。
 「あなたはこのことを信じますか。」(26b)という主イエスの問いかけに対して、マルタにならって「主よ、信じます」(27)と応答し、主との交わりの中に生かされて歩みましょう。

 (参考)
   「「イエスは涙を流された」ということばは、聖書の中で最も短く、それでいて最も大きな聖句です。」
    『祈りによる力』E・M・バウンズ(18351-1919)
                  米国南部メソジスト派教会の牧師

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ヨハネの福音書11章17~27節

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
          ヨハネの福音書11章25-26節 (p205)

 

序 論)ベタニアにいたマルタ、マリア、ラザロの兄姉は、主イエスと親しい間柄でした。(1)(18)
 主と弟子たちがヨルダン川の東側におられたとき、ラザロが病気であることが伝えられます。(3-4)
 それから二日後、ラザロの死を告げられた主イエスは弟子たちとベタニアに向かわれます。(14)(18)
 主イエスが到着されたとき、ラザロが埋葬されてすでに四日経っていました。(17)
 主イエスとラザロの姉、マルタとのやりとりと主のみことばを通して示されることは…

本 論)
1.ラザロのよみがえりを宣言される
 葬儀が行われ、大勢の人たちがマルタとマリアを慰めるために来ていました。(19)
 当時のユダヤの葬式は7日間続きました。
 主がベタニアに来られたとき、マルタは主を出迎えに行きました。マリアは家で座っていました。(20)
 マルタは主イエスにお出会いするなり、今まで心に留めていたことを一気に語ります。(21)
 マルタのことばには「主よ、なぜもっと早くここに来て下さらなかったのですか」という気持ちが込められています。
 それと共に、続く彼女のことばには主イエスがおられたら兄弟ラザロは必ず助かったのだという、主に対する信頼が表れています。(22)
 主イエスはマルタを励まし、ラザロのよみがえりを告げられます。(23)

2.主をよみがえりであり、いのちと信じる
 ところが、マルタはラザロがよみがえるのは「終わりの日」であると受け取っていました。(24)
 これは正統的ユダヤ教の信仰でした。マルタは終わりの日のよみがえりを信じていましたが、このときはまだ愛する者を失った大きな悲しみの中にありました。
 死の現実に彼女の心は支配されていたのです。
 主イエスはマルタの信仰を強め、さらに励まされるように「わたしはよみがえりです。いのちです」と語られました。(25)
 ラザロをよみがえらせると言われた主は、ご自身が「よみがえり」であり「いのち」であると宣言されたのです。
 主はマルタにそのことを信じることを求めておられました。
 さらに「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と仰いました。(25)
 主イエスを信じる者は地上の生涯を終えても、永遠のいのちに生かされるのです。
 そして、「また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」と語られます。(26a)
 地上の生涯の中で主イエスとお出会いし、主を信じる者はそのときから永遠のいのちに生かされているのです。
 それで主はこのように仰られたのです。
 主イエスはマルタに「このことを信じますか」と問われました。(26b)    彼女は、主イエスの語られたことをすべて理解できたわけではありませんでしたが、はっきりと主に信仰告白をしました。(27)

結 論)ヨハネの福音書の中で、主イエスに対する信仰を明確に告白したのはマルタただ一人です。
 この後、主イエスがラザロをよみがえらせれられたのは、ご自身がよみがえりであり、いのちであることを示され、すべての人がイエス様を神の御子、救い主と信じ、心に受け入れるようになさるためでした。
 人間は罪によって「死へと向かう存在」となってしまいました。(ローマ人への手紙5章12節p305)
 しかし、主イエスの十字架と復活によって罪赦され、永遠のいのちに生かされる者とされたのです。
             (ローマ人への手紙5章17節p305)
 死からいのちに移された恵みを覚え、主イエスを信じ、父なる神様、御子イエス様との交わりを深めつつ歩んでまいりましょう。

 (参考)
   『死に至る病』ゼーレン・キルケゴール
         (デンマークの思想家1813-1855)
 『罪と罰』ヒョードル・ドストエフスキー
                (ロシアの作家 1821-1881)

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ヨハネの福音書11章1~16節

姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。
「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」         ヨハネの福音書11章3-4節 (p204)

序 論)エルサレム近郊の地、ベタニアに主イエスの愛しておられた兄姉、マルタ、マリア、ラザロがいました。(1)(5)
 この時、ラザロは病気で死に瀕(ひん)していました。
姉妹は主に使いを送り、自分たちの所に来て彼をいやしてくださるようにと願いました。(2-3)
 (このとき主と弟子たちはヨルダン川の東側におられた)
 そのことを聞かれた主イエスの言行を通して示されることは…

本 論)
1.神の栄光のため
 主はこの知らせを聞かれた時、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。…」と答えられます。(4)
 主のことばを聞いた弟子たちはラザロの病気が重くはないと受け取りました。
 主イエスは知らせを受けられながら、なお二日そこにとどまられ、ついにラザロは死んでしまいました。(6)
 このとき主イエスは、死んだラザロをよみがえらされようとしておられたのです。
 そして、ラザロのよみがえりは主イエスが神の御子、救い主であることを証しする「しるし」(第七のしるし)でした。
 そのために主は「もう一度、ユダヤに行こう」と弟子たちに言われたのです。(7)
 これを聞いた彼らは、ユダヤ人たち(宗教指導者たち)が主を「石打ちにしようと」待ち構えている危険な場所に行くことに反対しました。(8)
                    (ヨハネの福音書10章31節p202)   

2.ラザロを起こすために行かれる
 弟子たちのことばに主は答えられます。(9-10)
 昼間の「十二時間」(9)は、主イエスが地上で宣教の働きをなさるために父なる神様が定めておられる期間を意味しています。
 この期間は、誰も主イエスの歩みを妨げることはできません。ゆえにユダヤ人からも守られ、ベタニアにも弟子たちと共に行かれるのです。(9)
 しかし、やがて夜(主イエスの受難の時)が来ます。そのときこの世の光である主イエスを見失う者は、「その人のうちに光がないから」つまずいてしまう(闇の中にとどまってしまう)のです。(10)(ヨハネの福音書8章12節p195)
 それから主イエスは、婉曲的な(遠回しの)表現で「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。…」と言われました。(11)
 弟子たちは、この主のみことばを、ラザロの病気の危機は去り、彼は今、回復途上の(睡眠の意味での)眠りについていると受け取りました。(12-13)
 そこで主イエスはラザロの死をはっきりと告げられます。(14)
 このとき、主が弟子たちに望んでおられたのは、彼らがご自身を、死にさえ勝利されるお方として信じるようになることでした。
 ここで言われた「起こす」(11)は死んだラザロをよみがえらせられるという意味です。
 あとわずかしか残されていない地上のご生涯において、主は彼らの信仰を強めようとされました。それで15節のように語られたのです。
 しかし、弟子たちは、主の身に危険が迫ることしか考えていませんでした。弟子のトマスの悲壮なことばがそれを表していました。(16)

結 論) この後、主イエスはラザロをよみがえらされて神の栄光を現わされ、その栄光を受けられます。(4)
 「神の子が栄光を受ける」(4)というみことばには、主が苦しみを受けられ十字架で死なれることと、その後、復活されることの二重の意味が込められていました。
 ラザロのよみがえりは、後に十字架で死なれる主イエスご自身が、復活されることの予表でした。
 主が十字架で死なれ、復活された後、聖霊が弟子たちに降りました。その聖霊降臨の日(ペンテコステの日)、人々に説教をした弟子のペテロはダビデが歌った詩篇16篇8-11節(p945)を引用し、主の十字架と復活を語りました。(使徒の働き2章23-28節p235)
 父なる神様が主イエスを復活させられたように、やがての終わりの日(主の再臨のとき)、主は私たちを復活させてくださいます。(ヨハネの福音書6章39-40節p190) 
 主イエスを信じ、永遠のいのちに生かされ、「いのちの道」(詩篇16篇11節)を共に歩んでまいりましょう。

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ヨハネの福音書10章31~42節

もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。
      ヨハネの福音書10章37-38節 (p204)

序 論)宮きよめの祭り(「神殿奉献記念祭」新共同訳)が行
われていた冬の日(22)に、主イエスとユダヤ人(宗教指導
者たち)との間で言葉のやりとりがありました。その中で、
主はご自身が救い主であることを証しされました。
 しかし、主のみことばを聞いてもユダヤ人たちは主に怒
りを募らせます。
 主がさらに彼らに語られたことは…

本 論)
1.父なる神が世に遣わされたお方
 ユダヤ人たちは主イエスを石打ちにしようとしました。
 (31)
 主は彼らにその理由を問われます。(32)
 彼らの目には「わたしと父は一つです」(30)と言われる
主が神を冒瀆していると映ったのです。(31)
                     (ヨハネの福音書5章18節p185)
 主イエスは彼らが信じている旧約聖書の中に、地上の王
たちが「神々」と呼ばれている箇所があることを指摘され
ました。(33)
 ここでの「律法」は旧約聖書全体のことを指して言われて
います。
 ここで引用されている詩篇82篇6節(p1020)で
「神々」と呼びかけられているのは地上の王たちです。彼
らは人間であっても「神のことばを受けた」ことによって
そのように呼ばれました。(35) 王たちは神の言葉を受け、
それに従おうとしていました。
 この詩篇の言葉から見ても、多くの良いわざを成された
主イエスが神を父と呼び、ご自身を神の子であると言われ
たことをユダヤ人たちが冒瀆だと非難するのは不当なこと
でした。(36)
 主イエスは父なる神様が聖なる者として世に遣わされた
神の御子でした。

2.父なる神様が御子と共におられる 
 「父から出た多くの良いわざ」(32)と言われたように主
イエスは父なる神様からの御力によってそれらを成してお
おられました。
 主イエスが行われたみわざは、ご自身が父なる神様のも
とから来られたお方であり、神様が御子イエス様と共に
おられることを証ししていました。(38)
 そして、そのことをユダヤ人たちが知ることを願って主
は彼らを招かれました。
しかし、彼らはますます反発し、主を捕えようとしまし
た。(39)
 けれども、主イエスの「時」が来るまで、彼らは主を捕
えることも亡き者にすることもできませんでした。
その後、主イエスはエルサレムから「ヨルダンの川向こ
う」(40)に行かれました。
 そこはかつて洗礼者ヨハネが集まって来る人々に悔い改
めのバプテスマ(洗礼)を授けていた場所でした。
 多くの人々が主イエスのもとに来て、主のみことばを
聞き、主の行われたしるしを見ました。
 それらを見聞きした彼らは、洗礼者ヨハネの主イエスに
ついての証しが真実であることを知りました。(41)
              (ヨハネの福音書1章26-31節p176)
 彼らは主を信じました。(42)彼らの姿は、エルサレムの
ユダヤ人たち(宗教指導者たち)の姿と全く対照的でした。

結 論) 「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのた
めにいのちを捨てます」(11)と言われた主イエスは、この
みことばの通り、ご自分のいのちを十字架で捨てられまし
た。
 主は十字架で死なれましたが、復活されました。そして
昇天され、神の右に着座されました。
 今も聖霊によって、主イエスは私たちと共におられます。
そして、良い羊飼いとして私たち一人ひとりの人生の導き
手となってくださっています。
                     (詩篇23篇1-6節p954)
 主は「聖書が廃棄されることはあり得ないのだから」
(35)とも言われました。主のみことばは消え去ることはあ
りません。(マタイの福音書24章35節p52)
 聖書(旧約聖書、新約聖書)が神の御子、救い主と証しす
る主イエスを信じ、共に歩んでまいりましょう。

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ヨハネの福音書10章22~30節

わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてに
まさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去る
ことはできません。わたしと父とは一つです。」
     ヨハネの福音書10章29-30節 (p203)

序 論)この章でイエス様はご自分を良い羊飼いにたとえ
て語られました。
 22節からは、宮きよめの祭り(「神殿奉献記念祭」
(新共同訳))(22)のときの出来事が記されています。
 これは7章の仮庵の祭りから三ヶ月近くたった頃のこと
です。(7章2節p192)
 宮(神殿)の中での主イエスとユダヤ人たち(宗教指導者
たち)とのやりとりや主のみことばを通して示されること
は…

本 論)
1.わたしの羊たち
 ユダヤ人たちは主イエスに問いかけます。(24)
 しかし、このことについて主はすでに答えておられました。
(25)
    (ヨハネの福音書5章36節p187、10章14-15、18節等)
 それなのに、彼らは主にまた質問をしました。それは、
彼らが主を知らなかったからではなく、主を信じようとし
なかったからです。
 彼らは、キリスト(救い主)は、ユダヤの国をローマ帝国
から武力で解放してくれる方だと思っていました。
 しかし、主イエスは「苦難のしもべ」として、愛と犠牲
の道を歩まれるお方でした。
                  (イザヤ書53章4-6節p1259)
 また、彼らの目には主イエスが神様を汚しているように
映りました。
 これらのため、彼らは主イエスを受け入れることができ
なかったのです。
 それは「…あなたがたはわたしの羊の群れに属していな
いからです。」と主は言われます。(26)
 彼らとは逆に、主イエスの御声を聞き、主を信じ、従う
者たちのことを「わたしの羊たち…」と仰いました。(27)
 主は、主に従う者たち一人ひとりのことを誰よりもよく
ご存じなのです。
 羊たちが羊飼いの声を聞き分けるように、彼らは主の御
声を聞き、従う者たちです。

2.永遠のいのちを与えられる
 主イエスのもとに来て、主を信じた者は永遠のいのちが
与えられます。(28a)
 そして、主はご自身の御手をもって、彼らを支え、守ら
れます。(28b)
 さらに主イエスは、主を信じる者たち(わたしの羊たち)
は「わたしの父がわたしに与えてくださった者」だと言わ
れます。(29)
 天の父なる神様が彼らを主のもとに引き寄せてくださっ
たのです。(ヨハネの福音書6章44節p190)
 主は彼らのことを「すべてにまさって大切です」と言わ
れ、御子イエス様と共に父なる神様が彼らを守ってくださ
ると仰られました。(29)
 その後、主イエスは彼らに「わたしと父とは一つです」
と言われます。(30)主のこの言葉が、ユダヤ人たちの反感
をさらに強めました。
 すでにユダヤ人たちは主イエスが「神をご自分の父と呼
び、ご自分を神と等しくされた」ことに対して殺意をあら
わにしていました。(ヨハネの福音書5章18節p185)
 ここでも「わたしと父とは一つ」という言葉がユダヤ人
たちには神を冒瀆しているように聞こえました。
 しかし、父なる神様の御心、救いのご計画に従って歩ま
れる主イエスのみことばは真実でした。
   

結 論) 本日の交読文、詩篇14篇に記されているように
私たちもかつては神様を知らず、神から心が遠く離れてい
た者でした。(詩篇14篇1節p944)
 しかし、父なる神様は御子イエス様を地上に送られ、
御子を通して救いのみわざを成し遂げてくださったので
す。
 私たちは主イエスを通して父なる神様を知り、主を信じ
て救いの恵みにあずかりました。
 主イエスを信じ、従う者は罪赦され、きよめられた者で
す。(イザヤ書1章18節p1168)
 私たちは聖霊のお働きにより「たましいの牧者」である
主イエスのもとに、そして父なる神様のもとに帰ることが
できました。
              (ペテロの手紙 第一 2章25節p468)
 私たちは三位一体(御父、御子、聖霊)の神様の恵みと御
守りの中で、永遠のいのちに生かされ歩み続けます。

 (参考)
  宮きよめの祭り(神殿奉献記念祭)(ハヌカーの祭り)
    AD168年 シリアの王がエルサレムの神殿を占領し
      偶像礼拝の場にしてしまった。
 AD167年 ユダのマカベアが神殿を回復した
      ことを記念し、宮きよめのまつりが
      行われるようになった。

(参考)
  ヨハネの福音書6章44節についての
カルヴァンの註解
 「…人間は決して、自分からキリストに来ることはできな 
  いからである。神があらかじめその聖霊によって彼に
  働きかけていなければならない。…もっとも、その引き
  寄せるやり方は、人々が外面的な力によって強制される、
  と言った、暴力的なものではない。しかし、それは効果
  的な聖霊の働きであり、それによって以前は望まなかっ
  た人たちが進んで望むようにされるのである。」

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ヨハネの福音書10章11~21節

私は良い牧者です。私は私の者を知っており、わたしの
ものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを
知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。ま
た、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。」
            ヨハネ10章14-15節 (p202)

序 論)旧約聖書では、神様と人間との関係を牧者(羊飼い)
と羊にたとえて語られている箇所があります。
 この章でイエス様はご自分を良い羊飼いにたとえて語ら
れました。この箇所で示されることは…

本 論)
1.この囲いに属さない羊たちのためにも
 盗人や強盗にたとえられているパリサイ人たちは、羊た
ち(イスラエルの民)を養わず、かえって彼らのいのちを奪
っていました。(8)
 しかし、良い羊飼いである主イエスは、羊たちのために
いのちを捨てる、と言われます。(11)
 また宗教指導者たちのことを「雇人」にたとえられまし
た。(12-13) 彼らは羊のことを心にかけていませんでした。
 主イエスは「わたしのもの」と言われる弟子たちのこと
を知っておられます。(14)
 パリサイ人たちは、主イエスが本当はどのようなお方か
を知ることはできませんでした。
 しかし、主を信じ、従う人たち(弟子たち)は、主が良い
羊飼いであることを知っていました。
 それは父なる神様が御子イエス様を知っておられ、御子
が神様を知っておられるのと同じだ、と言われます。(15)
 主イエスは父なる神様とご自身の交わり、信頼関係を
ご自身と弟子たちの間にも築こうとしておられるのです。
 さらに主は語られます。(16) 「この囲いに属さないほ
かの羊たち」は、まだ主イエスのことを知らない人たち、
そして、ユダヤの民以外の民たち(異邦人)のことを意味し
ていました。
 主イエスは、彼らをも導き、救おうとしておられたので
す。

2.ご自分からいのちを捨てられる
 「この囲いに属さない羊たちのため」(16)にも、主イエス
はご自分のいのちを捨てようとしておられました。それは、
父なる神がご自身を愛しておられること、ご自身を通し
てすべての人を罪から救おうとしておられることを知って
おられたからです。(17)
 宗教指導者たちはすでに主イエスを亡きものにしようと
いう思いを抱いていました。
           (ヨハネの福音書5章18節p185)
 しかし、主はご自分からいのちを捨てられると言われ
ます。(18ab)
 主がご自分のいのちを捨てられるのもそれを再び得られ
るのも、ご自身の権威によるのです。そして、そのことは
父なる神様からの命令であると語られました。(18cd)
 主イエスが言われる「いのちを捨てる」とは、十字架に
かかられ、死なれることです。
 「それを再び得る」とは、その後、復活されることです。
主イエスを十字架に引き渡され、復活させられることは
父なる神様のご計画でした。
 主イエスは父なる神を愛し、御心に従ってご自分のいの
ちを捨てようとしておられたのです。
 主イエスのみことばを聞いた宗教指導者たちの間で主に
対する意見の分裂が生じました。(19)
 彼らの多くは、主を悪霊に取りつかれた者と見ました。
しかし、他の者は、主のみことばは神からのものであり見
えない人の目を開けるというみわざは神から送られた特別
な人でなければできない、と言いました。(20-21)
 彼らの意見の分裂はこの後も続きます。

結 論) 主イエスはここで語られた通り、父なる神様の御
心に従われ十字架で死なれますが、神様は主を復活させら
れました。
 主の復活を目撃し、聖霊によって力が与えられた弟子た
ちは、福音を宣べ伝え、主を証ししました。
 主のみことばの通り、「わたしの声」(福音)を聞き、多
くの人たちが主を信じ、従い、福音が世界中に広がってい
きました。
 今も、聖霊により主イエスは、聖書を通してみことばの
種を蒔き続け、私たち一人ひとりを導いておられます。
 今日、様々な声が世に満ちています。その中でも、毎日
聖書を読み、主のみことばに耳を傾け、父なる神様、御子
イエス様との交わりを持ちながら歩みましょう。
 そして、良い羊飼いである主の御声に聞き従ってまいり
ましょう。

 (参考)
     由木 康(1896-1985)
       日本キリスト教団 東中野教会牧師
   讃美歌の翻訳や作詞をした。
  ブレーズ・パスカル(1623-1662)の
  『パンセ』を翻訳。

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ヨハネの手紙第1 3章4~10節

黒磯教会創立70周年記念聖会②
説 教 題: 「きよめの恵みと教会の聖化」

説 教 者:         川崎 豊 師

序 論) 礼拝においてはパウロが書いたテサロニケの手紙からきよめて下さるという神の約束に生きる者の祝福について語らせていただきました。この午後は12弟子の一人ゼベダイの子使徒ヨハネを通して、それもヨハネの手紙を通して「きよめの恵みと教会の聖化」と題して御言葉を取り継させて頂きます。

本 論) 罪に打ち勝つ生活を目指して
 この手紙では明確に主イエス様がこの世に来られた目的について書いています。5節を見てください。「…だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。…」(新改訳)と。救われたクリスチャンは罪を犯しませんと理解すべきでしょうか。しかしヨハネは1章10節で「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません」(新改訳)と言っています。何か矛盾があるように見えます。これはクリスチャンに向かって言われた言葉です。
 この御言葉を私は次のように理解しています。「『だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません』という御言葉はキリストの内に留まるものは故意の罪、罪だど分かっているのに敢えてそれを犯すような罪は犯しません」という理解です。しかし気づかされた時には相手を傷つけ、損害を与え、躓かせていたと言う罪は犯すかもしれません。そのような罪から自由にされることは天国に行くまでは与えられていませんという理解です。愛の心と相手の幸福と益のみを願って隣人と接する人間に肉体を持っているときに経験できるのです。これを福音と言わないで何というのでしょうか。
 救世軍のブレングルという方はきよめを次のように説明しています。私はこの定義が大好きです。「聖潔とは、いつでもどこでも、ただ神がなれと言われる通りになり、しなさいと言われる通りにする、心と生活をいう」と。神様に対して反抗しない。神様の言うとおりに生きることが私の喜びですと言う心に造り変えられることだと言うのです。

本 論) ❷新生、聖化、神癒の恵みに生きる
例 話 ここで私の証しをしたいと思います。

新生 13歳の時礼拝を通して「『神を愛している』と言いながら、……目に見える兄弟を愛さないものは、目に見えない神を愛することが出来ない」<Ⅰヨハネ4:20>(口語訳)の御言葉から罪を示されました。そして父親と弟を憎むことは主イエス様を憎むことであり、わたし(主)が愛しているものをお前はどうして愛せないのだとの迫りを受け、そしてキリストの十字架はお前の憎しみの心を変えてくれるとのメッセージを聞き信じました。そして私は変えられました。これがわたしの新生の経験です。

聖化 変えられた私は18歳の時、札幌市で開かれた「新年聖会」に初めて出席しました。そこで主イエス様の福音を直接述べ伝える伝道者になりなさいという御声を聞いてしまったのです。その声を否定すると平安も喜びも消えました。ついに御言葉と聖霊の促しに従い献身しました。この献身がきよめの経験だと思って聖書学校に入りました。違いました。聖書学校は煉獄のようなところでした。苦悩しながら卒業し伝道者になりました。しかし伝道説教している時、主に「あなたは偽善者」の声を聴いてしまいました。そしてその年度に開かれた新年聖会できよめの信仰と恵みに立つことが出来、信仰生活の悩みが吹っ切れました。

神癒 23年前今牧会しています野田キリストめぐみ教会に遣わされました。3年目には一時、教会堂の土台に大きな陥没が起こりました。ドアが曲がって開けにくくなりました。その土台を直すのに数百万かかると業者に言われました。みんなで祈りました。そして遂に御言葉が与えられ、そこを売却し、新しい所に移転する決意をしました。80%建物は完成しました時、建築会社が倒産してしまいました。銀行ローンも組めなくなり、裁判になりかけました。しかし10か月後全ては奇跡的に解決しました。私も家内も鬱になることなく、主に賛美を捧げさせてくださいました。

 

まとめ 今野田の教会は祝福されています。小さな教会ですが、信徒中心の教会にさせて頂こうと一生懸命です。御言葉を深く読み、御言葉を実践し、奉仕に生きる喜びを体得しつつあります。神と人に仕えて歩ませていただきましょう。

 

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