ヨハネの福音書13章1~11節

イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
             ヨハネの福音書13章3-5節 (p211)

序 論)ユダヤ人たちに対する最後の訴えと招き(12章44-50節)を終えられた主イエスは弟子たちと共に食事をなさいます。(受難週木曜日夜の最後の晩餐)
 そのときに主がなされ、語られたことを通して示されることは…

本 論)
1.十字架の死に至るまで
 主イエスが父なる神のみもとに帰られる時が来ました。主は弟子たちを最後まで愛されました。(1)
 悪魔は十二弟子の一人、イスカリオテのユダに主を裏切らせようと働きかけます。(2)
 主は父なる神様がご自身にすべてを委ねてくださったこと、ご自分が神様のみもとに帰ろうとしておられることをご存じでした。(3)
 主イエスは弟子たちの足を洗われました。(4-5)
 それは当時、奴隷のする仕事でした。
 師が弟子たちの足を洗われるという前代未聞の出来事に彼らは驚き、とまどいました。(6)
 すべてのことをご存じの主イエスは、ご自分を裏切るユダの足や、後に主を三度知らないと否定してしまうペテロの足をも洗われたのです。
 自分を裏切る者の前にひざまずき、身をかがめて洗うことは、真の謙遜、真の愛がなければできない行いです。
 「…自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(「…十字架の死に至るまで従順であられた」(口語訳))(ピリピ人への手紙2章8節 p396)とありますが、主の洗足(せんそく)は、主の十字架の死を象徴する行いでもありました。  

2.十字架による救いときよめ 
 ペテロの問いに主イエスは答えられます。(7)
 この時、ペテロは主の洗足の意味を悟ることはできませ んでした。主の十字架と復活、昇天と聖霊降臨の後、ペテロや他の弟子たちも主がなされたことの深い意味を悟ることができたのです。
 主イエスとペテロのやりとりが続きます。(8) 主の洗足を拒むことは、主が与えようとしておられる救いの恵みを拒むことの表れでした。
 主に足を洗っていただくことは、主のご愛と恵みをいただき、主との交わりを持ちながら歩むことを意味しています。それで主はペテロにこのように言われたのです。
 さらにペテロは主に「…足だけでなく、手も足も洗ってください」と願いました。(9)
 主は答えられます。(10) ここでの足の汚れは人間の罪と心のけがれを、そして足を洗われることは罪の赦しと心のきよめを象徴しています。主イエスは十字架と復活によって罪を赦し、心をきよめてくださるのです。
 主イエスの十字架による救いを信じ、受け入れる者は罪赦され、きよめられている(全身がきよくされている)のです。
 主イエスは「ご自分を裏切る者」(イスカリオテのユダ)のことを告げられます。主はユダのこともすべてご存じでした。(11)
 そして、彼が自分の罪を認め、悔い改めることを最後まで願っておられたのです。

結 論)私たちは自力で自分を罪から救うことはできません。神様だけが私たちの罪を赦し、罪から救うことがおできになります。
 イスラエルの王であったダビデも神様に罪と咎(とが)の赦しを求めました。     (本日の交読詩篇25篇11節、18節p956)
 神の御子イエス様は自らを低くし、私たちの身代わりに十字架で苦しみを受け、いのちを捨ててくださいました。
 主イエスが十字架で流された血潮には、今も私たちの罪を赦し心のけがれをきよめる力があります。   (ヨハネの手紙 第一 1章7-9節p478) 
 主のご愛は今も私たちに注がれ続けています。私たちは
このご愛をいただいて神様を愛し、隣人を愛する道を歩んでいくのです。

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