ヨハネの福音書12章44~50節

イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。」          ヨハネの福音書12章44-46節 (p210)

 

序 論)主イエスは多くのしるしを行い、福音を語られ、群衆(ユダヤ人)たちを招かれましたが、彼らは主を信じることができませんでした。(37)
 主は再び大声で彼らに語りかけられます。(44a)
 これは主が「ご自分の民」であるユダヤ人たちに語りかけられた最後のみことばでした。
 みことばを通して示されることは…

本 論)
1.父なる神様が御子を遣わされた
 主イエスが言われる「わたしを遣わされた方」は父なる神様です。(44)
 父なる神様が御子イエス様を地上に遣わされ(送られ)ました。
 主は「わたしと父とは一つです」と言われました。
            (ヨハネの福音書10章30節p203)
 主イエスを信じる者は父なる神を信じるのであり、主を見る者は父なる神を見るのです。(44-45)
 続いて主は「わたしは光として世に来ました。…」と語られます。(46)
 罪によって暗闇の中に捕らえられている私たちが、いのちの光である主イエスにより、闇から光へと移され、光の中を生きるようになることが、父なる神様のみこころです。
 父なる神様の恵みとあわれみは御子イエス様によって現わされました。         (詩篇25篇6節p955)
 主イエスは世(すべての人)を救うためにこの地上に来てくださったのです。(47)  

2.主イエスのみことばを信じ、受け入れる
 主イエスはご自分が語られたみことばが「終わりの日に」主を受け入れない者をさばくと言われます。(48)
 「終わりの日」とは主イエスが再臨され、この世界がなくなり、新しい天と地が到来するときです。(ヨハネの黙示録21章1-4節p516)
 みことばを受け入れ、主イエスを信じる者は罪からの救いにあずかり、終わりの日のさばきを免れることができるのです。
 さらに主イエスは「わたしは父の命令が永遠のいのちであることを知っています。」(50a)と言われます。
 父なる神様は、御子イエス様によって、信じる人たちに永遠のいのちを与えることを願っておられます。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。」 (ヨハネの福音書3章16節p180)
 そのため主は、ご自分を遣わされた神様の命じられるままに、すべてのことを話されました。(49-50)
 主イエスはこれほどまでに何度もユダヤ人たちに語りかけ招かれたにも関わらず、彼らは主を受け入れず、十字架に追いやりました。
 しかし、神様は彼らの悪行をも用いられて救いのみわざを成し遂げてくださいました。
 「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは、今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」
 (ヤコブの子ヨセフが自分の兄弟たちに告げた言葉)
                        (創世記50章20節p98)

結 論)主イエスは父なる神のみこころに従って、私たちの罪をすべて背負って十字架で死なれました。
 そして、父なる神様が主イエスを復活させられました。
 父なる神様と御子イエス様が一つとなって私たちのため
の救いを成し遂げてくださったのです。(ローマ人への手紙4章24b-25節p304) 
 すべての人は主イエスのみことばに対する信仰によって
義と認められ、不信仰によって罪に定められるのです。
 今日の交読詩篇25篇はユダヤの王であり詩人であったダビデが「主の道」(主に従う正しい道)を祈り求める詩篇です。(25篇4-5、8-10節p955)
 その道は主イエスの十字架と復活によって開かれ明らかにされました。
 私たちの「罪や背き」(詩篇25篇6節p955)は主イエスの十字架の贖いにより赦されています。
 みことばをさらに求め、主イエスを信じ、従う道を歩み続けてまいりましょう。

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