すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて 死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
ヨハネの福音書12章23-24節 (p209)
序 論)過越しの祭りの直前、主イエスは弟子たちとエルサレムに入城されました。(12章12-15節)
神殿で礼拝をささげるためにエルサレムに来ていた何人かのギリシア人たちが主イエスにお会いしたいと弟子のピリポを訪ねてきました。(20-21)
その後、主が彼らやユダヤ人たち語られたことと起こった出来事を通して示されることは…
本 論)
1.一粒の麦が地に落ちて
ピリポはガリラヤのベツサイダの出身で、そこには異邦人が多く住んでいました。ピリポはギリシア名で彼はギリシア語が話せたのでしょう。
ピリポはアンデレに相談し、二人で主イエスのもとに行きます。そして、ギリシア人たちの願いを伝えました。(22)
主が彼らの願いを聞かれたとき、「人の子が栄光を受ける時が来ました」(23)と宣言されました。
それはご自身が十字架にかかられる時が来たという意味です。
そして、種がまかれて、芽が出て、実を結ぶという身近な一粒の麦のたとえで、主イエスはご自分の死の意味を明かされました。(24)
一粒の麦は、豊かな実を結ぶために、地に落ちて死ななければなりません。そのように、一人の人(主イエス)の死によってすべての人が罪赦され、永遠のいのちに生かされる道が開かれようとしていました。
「自分のいのちを憎む者」(25)の「憎む」の原語は、「執着しない」という意味が含まれています。
主イエスにならい、仕えていくとき、私たちは自己中心の生活から神様を第一とする生活へと変えられていきます。父なる神様はそのような者たちを重んじてくださいます。(26)
2.主イエスの祈りと天からの御声
十字架の御苦しみと死を前に主イエスは「わたしの心は騒いでいる…」(27)と言われます。
主は「父よ、この時からわたしをお救いください」と祈るべきかと思案されたものの、「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」と言われました。
さらに主は「父よ、御名の栄光を現わしてください」と祈られました。(28a)
そのとき天から御声が聞こえました。(28bc)
主イエスの言行やしるし(奇跡のみわざ)を通して栄光を現された父なる神様が、主の十字架と復活を通して再び栄光を現わすと約束してくださったのです。
天からの御声は、聞く耳のある者にしか理解できませんでした。(29)
この御声は、主イエスのみことばを聞いていた「あなたがたのため」(ユダヤ人やギリシア人のため)と言われます。(30)
「今、この世を支配する者」(31)とはサタン(悪魔)のことです。(ヨハネの福音書13章27節p212)
「わたしが地上から上げられるとき」(32)は主イエスが十字架にかかられることとその後に復活され、天にあげられることを意味しています。
(ここでは特に十字架の死を強調して語られている(33))
罪と死と悪魔に打ち勝たれた主イエスは、すべての人をご自分のもとに引き寄せてくださいます。(32)
結 論)主イエスのみもとに来た数名のギリシア人たちは異邦人であり、世界中の人たちの代表でもありました。
主イエスはすべての人のために十字架にかかられ、復活されたのです。
主の一粒の麦のたとえとみことば(24-26)は、主の呼びかけであり、招きでもあります。
この呼びかけ、招きに応じて、これまでどれだけ多くの人たちの人生が変えられていったことでしょうか。
「天からの御声」は、今、聖書を通して私たちに語られています。
主イエスはご自分を良い牧者(羊飼い)と言われ、羊たちはその御声を聞き分けると語られました。(ヨハネの福音書10章3-5節p202)
そして羊飼いである主は私たちの人生の導き手です。 (詩篇23篇1-6節p954)
良い羊飼いである主イエスの御声を聞き分け、主に仕え、従ってまいりましょう。