ヨハネの福音書20章1~18節

イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
                   ヨハネ20章16節 (p.228)

序 論)主イエスが十字架で死なれた後、その御体はすぐに十字架から降ろされ、急いで墓に入れられました。夕暮れになると安息日(土曜日)に入るからでした。(20章38~42節)
 安息日が終わった週の初めの日(日曜日)の早朝、マグダラのマリアたちは、主の葬られた墓に向かいます。そこで起こった出来事は…

1.空の墓
 マリアが墓のある所に着くと入口の石がとりのけられていました。(1) 彼女はこのことを伝えるため、急いでペテロともう一人の弟子(ヨハネ)のもとに向かいます。(2)
 二人が墓に着き、ペテロが中に入ってみると、亜麻布はありましたが主の御体はありませんでした。(6-7)
 後から入ったヨハネも、これを見て信じました。(8)この「信じた」は文脈から見ると、マリアが言ったこと、すなわち墓が空であることを信じたということになります。
 しかし、ヨハネの福音書の中に出てくる「そして見て、信じた」という言葉は、主イエスに対する信仰の意味で用いられていることが多いことから、ここでも、主への信仰という意味が込められていると考えられます。この出来事はヨハネにとっての復活の主への信仰の出発点となったのです。
 ただ、まだ彼らは、主の復活が旧約聖書に預言されていたことであり、神様の救いのご計画の中でなされたことを「まだ理解していなかった」のです。(9)
 主イエスの復活と昇天の後、ペンテコステの日にペテロは、旧約聖書を引用しつつ、主の復活を語ります。(使徒の働き2章13-36節 p.234等)

2.マリアの名を呼ばれる主イエス
 その後、二人の弟子たちは自分たちの家に帰りましたがマリアは墓の外に立って泣いていました。そして彼女が中をのぞくと白い衣を着た御使いがいました。(10-12)
 マリアはまだ誰かが主イエスの御体を持ち去ったと考えていたのです。(13)
 彼女がうしろを振り向くとそこに主イエスが立っておられましたが、彼女は声をかけられても、その方が主だと気づかず園の番人だと思っていました。(14-15)
 主イエスがマリアの名前を呼ばれたとき、彼女はやっとこの方が復活された主だと分かりました。(16)
 マリアに対して「わたしにすがりついていてはいけません。…」(17)と言われた主イエスは、まもなくご自身が父なる神様のもとに昇られることをペテロたちに伝えるようにと語られます。
 そして、ペテロをはじめご自分を見捨てて逃げ去った弟子たちのことを親しく、「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。(17)
 さらに、ご自身の父なる神様は、弟子たちにとっても父なる神であると言われました。(17)
 御子イエス様の十字架と復活による罪の赦しと恵みをいただいた私たちも神様に「父なる神様」と親しく呼び掛けて祈ることができるのです。
 「(弟子たちに)…と伝えなさい」(17)との主イエスのみことばに従い、マリアは喜んで弟子たちのところへ行きました。そこで主イエスに出会ったことと彼らに伝えるように言われたことを告げました。(18)

結 論)主イエスはご自分を羊飼い、弟子たちを羊にたとえてこのように言われました。「門番は牧者(羊飼い)のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれの名を呼んで連れ出します。」(ヨハネの福音書10章3節p.202)
 復活された主イエスはこのときも「良き羊飼い」としてご自身の羊(マリア)を名前で呼ばれたのです。(16) 自分の名前を呼ばれる御声を聞いたとき、彼女はこのお方が復活された主イエスだとわかり、主を「ラボ二」とお呼びすることができました。
 今も、主イエスは聖書の言葉を通して、私たちに語りかけてくださっています。そして、私たち一人ひとりのことを愛し、一人ひとりの名前を呼んでおられます。
 主イエスは悲嘆に暮れていたマリアに「なぜ泣いているのですか」(15) と御声をかけられ、新たに立ち上がらせてくださいました。
 今、世界も日本も苦難と試みの日々の中にあります。イースターを共に迎えることができたこの日、主イエスの十字架と復活の恵みを新たに覚え、私の内に生きておられる主と共に、父なる神様に祈りながら、希望を持って歩んでまいりましょう。

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