姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。
「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」 ヨハネの福音書11章3-4節 (p204)
序 論)エルサレム近郊の地、ベタニアに主イエスの愛しておられた兄姉、マルタ、マリア、ラザロがいました。(1)(5)
この時、ラザロは病気で死に瀕(ひん)していました。
姉妹は主に使いを送り、自分たちの所に来て彼をいやしてくださるようにと願いました。(2-3)
(このとき主と弟子たちはヨルダン川の東側におられた)
そのことを聞かれた主イエスの言行を通して示されることは…
本 論)
1.神の栄光のため
主はこの知らせを聞かれた時、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。…」と答えられます。(4)
主のことばを聞いた弟子たちはラザロの病気が重くはないと受け取りました。
主イエスは知らせを受けられながら、なお二日そこにとどまられ、ついにラザロは死んでしまいました。(6)
このとき主イエスは、死んだラザロをよみがえらされようとしておられたのです。
そして、ラザロのよみがえりは主イエスが神の御子、救い主であることを証しする「しるし」(第七のしるし)でした。
そのために主は「もう一度、ユダヤに行こう」と弟子たちに言われたのです。(7)
これを聞いた彼らは、ユダヤ人たち(宗教指導者たち)が主を「石打ちにしようと」待ち構えている危険な場所に行くことに反対しました。(8)
(ヨハネの福音書10章31節p202)
2.ラザロを起こすために行かれる
弟子たちのことばに主は答えられます。(9-10)
昼間の「十二時間」(9)は、主イエスが地上で宣教の働きをなさるために父なる神様が定めておられる期間を意味しています。
この期間は、誰も主イエスの歩みを妨げることはできません。ゆえにユダヤ人からも守られ、ベタニアにも弟子たちと共に行かれるのです。(9)
しかし、やがて夜(主イエスの受難の時)が来ます。そのときこの世の光である主イエスを見失う者は、「その人のうちに光がないから」つまずいてしまう(闇の中にとどまってしまう)のです。(10)(ヨハネの福音書8章12節p195)
それから主イエスは、婉曲的な(遠回しの)表現で「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。…」と言われました。(11)
弟子たちは、この主のみことばを、ラザロの病気の危機は去り、彼は今、回復途上の(睡眠の意味での)眠りについていると受け取りました。(12-13)
そこで主イエスはラザロの死をはっきりと告げられます。(14)
このとき、主が弟子たちに望んでおられたのは、彼らがご自身を、死にさえ勝利されるお方として信じるようになることでした。
ここで言われた「起こす」(11)は死んだラザロをよみがえらせられるという意味です。
あとわずかしか残されていない地上のご生涯において、主は彼らの信仰を強めようとされました。それで15節のように語られたのです。
しかし、弟子たちは、主の身に危険が迫ることしか考えていませんでした。弟子のトマスの悲壮なことばがそれを表していました。(16)
結 論) この後、主イエスはラザロをよみがえらされて神の栄光を現わされ、その栄光を受けられます。(4)
「神の子が栄光を受ける」(4)というみことばには、主が苦しみを受けられ十字架で死なれることと、その後、復活されることの二重の意味が込められていました。
ラザロのよみがえりは、後に十字架で死なれる主イエスご自身が、復活されることの予表でした。
主が十字架で死なれ、復活された後、聖霊が弟子たちに降りました。その聖霊降臨の日(ペンテコステの日)、人々に説教をした弟子のペテロはダビデが歌った詩篇16篇8-11節(p945)を引用し、主の十字架と復活を語りました。(使徒の働き2章23-28節p235)
父なる神様が主イエスを復活させられたように、やがての終わりの日(主の再臨のとき)、主は私たちを復活させてくださいます。(ヨハネの福音書6章39-40節p190)
主イエスを信じ、永遠のいのちに生かされ、「いのちの道」(詩篇16篇11節)を共に歩んでまいりましょう。