ヨハネの福音書10章22~30節

わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてに
まさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去る
ことはできません。わたしと父とは一つです。」
     ヨハネの福音書10章29-30節 (p203)

序 論)この章でイエス様はご自分を良い羊飼いにたとえ
て語られました。
 22節からは、宮きよめの祭り(「神殿奉献記念祭」
(新共同訳))(22)のときの出来事が記されています。
 これは7章の仮庵の祭りから三ヶ月近くたった頃のこと
です。(7章2節p192)
 宮(神殿)の中での主イエスとユダヤ人たち(宗教指導者
たち)とのやりとりや主のみことばを通して示されること
は…

本 論)
1.わたしの羊たち
 ユダヤ人たちは主イエスに問いかけます。(24)
 しかし、このことについて主はすでに答えておられました。
(25)
    (ヨハネの福音書5章36節p187、10章14-15、18節等)
 それなのに、彼らは主にまた質問をしました。それは、
彼らが主を知らなかったからではなく、主を信じようとし
なかったからです。
 彼らは、キリスト(救い主)は、ユダヤの国をローマ帝国
から武力で解放してくれる方だと思っていました。
 しかし、主イエスは「苦難のしもべ」として、愛と犠牲
の道を歩まれるお方でした。
                  (イザヤ書53章4-6節p1259)
 また、彼らの目には主イエスが神様を汚しているように
映りました。
 これらのため、彼らは主イエスを受け入れることができ
なかったのです。
 それは「…あなたがたはわたしの羊の群れに属していな
いからです。」と主は言われます。(26)
 彼らとは逆に、主イエスの御声を聞き、主を信じ、従う
者たちのことを「わたしの羊たち…」と仰いました。(27)
 主は、主に従う者たち一人ひとりのことを誰よりもよく
ご存じなのです。
 羊たちが羊飼いの声を聞き分けるように、彼らは主の御
声を聞き、従う者たちです。

2.永遠のいのちを与えられる
 主イエスのもとに来て、主を信じた者は永遠のいのちが
与えられます。(28a)
 そして、主はご自身の御手をもって、彼らを支え、守ら
れます。(28b)
 さらに主イエスは、主を信じる者たち(わたしの羊たち)
は「わたしの父がわたしに与えてくださった者」だと言わ
れます。(29)
 天の父なる神様が彼らを主のもとに引き寄せてくださっ
たのです。(ヨハネの福音書6章44節p190)
 主は彼らのことを「すべてにまさって大切です」と言わ
れ、御子イエス様と共に父なる神様が彼らを守ってくださ
ると仰られました。(29)
 その後、主イエスは彼らに「わたしと父とは一つです」
と言われます。(30)主のこの言葉が、ユダヤ人たちの反感
をさらに強めました。
 すでにユダヤ人たちは主イエスが「神をご自分の父と呼
び、ご自分を神と等しくされた」ことに対して殺意をあら
わにしていました。(ヨハネの福音書5章18節p185)
 ここでも「わたしと父とは一つ」という言葉がユダヤ人
たちには神を冒瀆しているように聞こえました。
 しかし、父なる神様の御心、救いのご計画に従って歩ま
れる主イエスのみことばは真実でした。
   

結 論) 本日の交読文、詩篇14篇に記されているように
私たちもかつては神様を知らず、神から心が遠く離れてい
た者でした。(詩篇14篇1節p944)
 しかし、父なる神様は御子イエス様を地上に送られ、
御子を通して救いのみわざを成し遂げてくださったので
す。
 私たちは主イエスを通して父なる神様を知り、主を信じ
て救いの恵みにあずかりました。
 主イエスを信じ、従う者は罪赦され、きよめられた者で
す。(イザヤ書1章18節p1168)
 私たちは聖霊のお働きにより「たましいの牧者」である
主イエスのもとに、そして父なる神様のもとに帰ることが
できました。
              (ペテロの手紙 第一 2章25節p468)
 私たちは三位一体(御父、御子、聖霊)の神様の恵みと御
守りの中で、永遠のいのちに生かされ歩み続けます。

 (参考)
  宮きよめの祭り(神殿奉献記念祭)(ハヌカーの祭り)
    AD168年 シリアの王がエルサレムの神殿を占領し
      偶像礼拝の場にしてしまった。
 AD167年 ユダのマカベアが神殿を回復した
      ことを記念し、宮きよめのまつりが
      行われるようになった。

(参考)
  ヨハネの福音書6章44節についての
カルヴァンの註解
 「…人間は決して、自分からキリストに来ることはできな 
  いからである。神があらかじめその聖霊によって彼に
  働きかけていなければならない。…もっとも、その引き
  寄せるやり方は、人々が外面的な力によって強制される、
  と言った、暴力的なものではない。しかし、それは効果
  的な聖霊の働きであり、それによって以前は望まなかっ
  た人たちが進んで望むようにされるのである。」

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