ヨハネの手紙第1 3章4~10節

黒磯教会創立70周年記念聖会②
説 教 題: 「きよめの恵みと教会の聖化」

説 教 者:         川崎 豊 師

序 論) 礼拝においてはパウロが書いたテサロニケの手紙からきよめて下さるという神の約束に生きる者の祝福について語らせていただきました。この午後は12弟子の一人ゼベダイの子使徒ヨハネを通して、それもヨハネの手紙を通して「きよめの恵みと教会の聖化」と題して御言葉を取り継させて頂きます。

本 論) 罪に打ち勝つ生活を目指して
 この手紙では明確に主イエス様がこの世に来られた目的について書いています。5節を見てください。「…だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。…」(新改訳)と。救われたクリスチャンは罪を犯しませんと理解すべきでしょうか。しかしヨハネは1章10節で「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません」(新改訳)と言っています。何か矛盾があるように見えます。これはクリスチャンに向かって言われた言葉です。
 この御言葉を私は次のように理解しています。「『だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません』という御言葉はキリストの内に留まるものは故意の罪、罪だど分かっているのに敢えてそれを犯すような罪は犯しません」という理解です。しかし気づかされた時には相手を傷つけ、損害を与え、躓かせていたと言う罪は犯すかもしれません。そのような罪から自由にされることは天国に行くまでは与えられていませんという理解です。愛の心と相手の幸福と益のみを願って隣人と接する人間に肉体を持っているときに経験できるのです。これを福音と言わないで何というのでしょうか。
 救世軍のブレングルという方はきよめを次のように説明しています。私はこの定義が大好きです。「聖潔とは、いつでもどこでも、ただ神がなれと言われる通りになり、しなさいと言われる通りにする、心と生活をいう」と。神様に対して反抗しない。神様の言うとおりに生きることが私の喜びですと言う心に造り変えられることだと言うのです。

本 論) ❷新生、聖化、神癒の恵みに生きる
例 話 ここで私の証しをしたいと思います。

新生 13歳の時礼拝を通して「『神を愛している』と言いながら、……目に見える兄弟を愛さないものは、目に見えない神を愛することが出来ない」<Ⅰヨハネ4:20>(口語訳)の御言葉から罪を示されました。そして父親と弟を憎むことは主イエス様を憎むことであり、わたし(主)が愛しているものをお前はどうして愛せないのだとの迫りを受け、そしてキリストの十字架はお前の憎しみの心を変えてくれるとのメッセージを聞き信じました。そして私は変えられました。これがわたしの新生の経験です。

聖化 変えられた私は18歳の時、札幌市で開かれた「新年聖会」に初めて出席しました。そこで主イエス様の福音を直接述べ伝える伝道者になりなさいという御声を聞いてしまったのです。その声を否定すると平安も喜びも消えました。ついに御言葉と聖霊の促しに従い献身しました。この献身がきよめの経験だと思って聖書学校に入りました。違いました。聖書学校は煉獄のようなところでした。苦悩しながら卒業し伝道者になりました。しかし伝道説教している時、主に「あなたは偽善者」の声を聴いてしまいました。そしてその年度に開かれた新年聖会できよめの信仰と恵みに立つことが出来、信仰生活の悩みが吹っ切れました。

神癒 23年前今牧会しています野田キリストめぐみ教会に遣わされました。3年目には一時、教会堂の土台に大きな陥没が起こりました。ドアが曲がって開けにくくなりました。その土台を直すのに数百万かかると業者に言われました。みんなで祈りました。そして遂に御言葉が与えられ、そこを売却し、新しい所に移転する決意をしました。80%建物は完成しました時、建築会社が倒産してしまいました。銀行ローンも組めなくなり、裁判になりかけました。しかし10か月後全ては奇跡的に解決しました。私も家内も鬱になることなく、主に賛美を捧げさせてくださいました。

 

まとめ 今野田の教会は祝福されています。小さな教会ですが、信徒中心の教会にさせて頂こうと一生懸命です。御言葉を深く読み、御言葉を実践し、奉仕に生きる喜びを体得しつつあります。神と人に仕えて歩ませていただきましょう。

 

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