一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。
私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさ
に目を注ぎその宮で思いを巡らすために。
詩篇27篇4節(p.957)
序 論)この詩篇にはユダヤの国の王であったダビデの祈
りの言葉が記されています。
前半(1-6)で、ダビデは神様への信頼を告白します。
後半(7-14)では、彼は嘆きの祈りをしています。
この詩篇の言葉を通して示されることは…
本 論)
主の家に住むことを求める
ダビデは自分の過去の経験を振り返り、敵に襲われたと
きも主が共にいてくださったが故に「私は動じない」と歌
います。(1-3)
そして、主は「私の光 私の救い いのちの砦」と歌い
ます。(1)
このようにダビデを支えていたのは神様への信頼と神と
の絶えざる交わりでした。
彼は主に「一つのこと」を願いました。それは「主の家
に住むこと」でした。(4)
そこで神様と親しく交わり、主の麗しさに目を注ぎ、恵
み深さを思い巡らすためです。
「隠れ場」、「幕屋」は、神様との交わりを持つ場所を
示しています。たとえ苦しい状況にあったとしてもダビデ
がそこで新たな望みと力をいただくことができたのです。
「私の頭(かしら)…高く上げられる」(6)の「頭を上げる」
は勝利の印であり、状況が好転することを意味しています。
それを成してくださるお方は神様であると詩人ダビデは歌
います。
彼は、神様の御助けを経験して、心から喜び、御名を崇
め賛美することを願いました。(6)
2、主の御顔を慕い求める
ダビデは神様に嘆き訴える中で、何を求めるべきである
かを示されました。(7-8)
それは「わたしの顔を慕い求める」ことです。
「わたしの顔」(主の御顔)とは、神ご自身です。主が御顔
を向けてくださるとは主のご臨在(主が私たちと共にいて
くださる)を表しています。
詩人はさらに神様に救いを求めました。(9)
「主が私を取り上げてくださる」は神様のダビデに対す
る助けが父が子を抱き上げる様子にたとえて示されていま
す。神様が悩める者と共に在して、その人を助けられるこ
とを意味しています。たとえ親しい者から見捨てられるこ
とがあったとしても神様は私たちを見捨てられることはな
いのです。
狩人が獲物を狙うように、敵はダビデを陥れようとしま
した。(11-12)
彼は、神様を信頼し、なお神のあわれみを求め続け、祈
り続けました。(13)
最後に詩人は、自分を励ますように語ります。(14)
「待ち望め 主を。」とたとえ現実が苦しい状況であった
としても、彼は主を待ち望みました。これによってダビデ
は神様から新たな力と希望を与えられ歩み続けることがで
きたのです。
結 論)「あなたは神様に何を第一のこととして願います
か」これは私たち一人ひとりに尋ねられている問いです。
後にダビデの息子ソロモンが王になったとき、彼は、
神の民(イスラエルの民)のためにこれを治める知恵を求め
て、神様に受け入れられました。
(列王記 第一 3章5-14節p597)
ダビデは、神様との深い交わりの内に生きることを最も
大切なこととして、主の家に住むことを願い、主の御顔を
求め続けました。
新約聖書の福音書の中で、主イエスは「しかし、必要な
ことは一つだけです。」と言われ、主の御前に座し、みこ
とばを求めたマリアの姿勢をよしとされました。
(ルカの福音書10章38-42節p136)
使徒パウロは「ただ一つのこと」、天の御国で主と共に
あることを願い、主ご自身を求めていきました。
(ピリピ人への手紙3章10-15節p398)
ダビデはイスラエルにおいて最も偉大な王であり、有能
な指導者でした。戦いの勇士であると同時に、詩人、音楽
家でもありました。
しかし、彼はそれら以上に、真の礼拝者でした。彼は
神様に嘆き祈る中で、何を求めるべきであるかを示された
のです。
この新しい年、私たちもダビデにならい、礼拝者として、
神様を礼拝し、みことばを求め、主ご自身を求め、主との
交わりを第一として歩み続けてまいりましょう。