ヨハネの福音書5章1~9a節

イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうし
ていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」

病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入
れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下
りて行きます。」イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上
げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取
り上げて歩き出した。
        ヨハネの福音書5章6-9a節 (p.185)

序 論)主イエスはガリラヤを去られ、祭りのために再び
エルサレムに上られました(1)
 そこにベテスダ(「あわれみの家」という意味)と呼ばれ
る池がありました。そこに来られた主イエスの言行を通し
て示されることは…

1.呼びかけてくださるお方
 ベテスダの池の側には、屋根付きの五つの回廊があり、

その中に、大勢の病人や体の不自由な人が身を横たえて
いました。(2-3)
 そこに天使が降りてきて池の水をかき混ぜ、水が動いて
いる間に最初に池に入る者は、いやされると信じられてい
たからです。(3b~4)(今回の聖書箇所の本文には、書かれ
ていない。下の脚注を参照。ギリシヤ語の原文には書かれ
ていなかった。7節の言葉の意味を理解しやすいように後
に書き加えられたのではと考えられている。この池は間欠
泉だったと思われる。)
 そこに38年間、病気にかかっている人がいました。(5)
     (彼が横たわっていた「床」は、四隅に短い脚のついた
枠にマット代わりに粗布を取り付けた「簡易ベッド」で
あったと言われている。)
 この男の人は、池の水が動くのを、そして水が動いた
池に運んでくれる人を求めて、待ち続けていました。
 しかし、叶わぬまま、日が過ぎていったのです。
 そのベテスダの池に主イエスは来られ、彼をご覧にな
り御声をかけられました。(6)
(「良くなりたいのか」(「なおりたいのか」(口語訳)
 原文を直訳すると「健やかになりたいのか」)

2. いのちを与えられる主
 この男の人は長い間、病気をわずらっていたこともあり、

主イエスの問いかけに対してさえも、悲観的な応答をせざ
るを得ないほど、絶望的な気持ちになっていました。(7)
 彼の言葉には、「周りの人たちが助けてくれないから」
とか「あの人たちのせいです」という気持ちも込められて
います。「どうせ、自分なんか…」という思いもあったこ
とでしょう。彼は孤独と不満、あきらめの中にいました。
 彼には「良くなりたい」と願いもありましたが、「でも
無理だ」と思っていたのです。
 主イエスの「良くなりたいのか」との問いかけは、この
人の心にわずかに残っていた良くなりたいという願いを呼
び起される言葉でもありました。
 さらに主イエスは 「起きて床を取り上げ、歩きなさい」
(8)と命じられました。その力強いみことばを聞いた彼の心
の中に、このお方のおっしゃる通りにしてみようという思
いがわきました。彼はいきなり立ち上がって、床を取り上
げ、歩き出したのです。(9a)
 彼が取り上げた「床」は、彼に38年間、のしかかって
いた心身の重荷を象徴していたかもしれません。
 主イエスは、この男の人に御声をかけられ新たな力を与
えてくださったのです。
 彼が立ち上がって歩き出したことは、新たな希望に向か
って生き始めたことの表れでした。  

結 論)主イエスの「起きて床を取り上げ、…」の「起きる」
の原語は「よみがえらせる」(2章19節p179)の「よみ
がえる」と同じ言葉が使われています。
 主イエスが、このみことばをこの人に告げられ、彼が起
き上がるのを見られたとき、主はご自身がやがて復活され
ることも思っておられたことでしょう。
 この後、十字架で死なれた主イエスを父なる神様は復活
させられました。
 私たちも「どうせ…」と現状に甘んじてしまいやすい者
です。しかし、そこにとどまらず主イエスに求めていきま
しょう。
 今、主イエスはいのちの源として、私たちにも御声をか
けられ、いのちを与え、新たに立ち上がって歩く力を与え
てくださいます。
 主イエスのみことばを心に受け入れ、信仰をもって応答
してまいりましょう。

(参考)
 「このあわれな病人は、私たちのほとんどすべてがいつ
 もしていることをやっている。それというのも彼は、
 自分の考えにしたがって神の助けに枠を定め、限界づけ
 をして、自分の悟性に抱懐できるものより以上のものは
 認めまいとしているからである。」
  (カルヴァン(1509-1564)
          『ヨハネの福音書 注解』より)

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