黒磯教会新年聖会Ⅱ
聖書が語るきよめⅡ
始め)
午前の礼拝では義とされるという話をした。神様のご性質である義、愛、聖というと、神様の聖さということに、私たちは一番抵抗感があり背を向けやすいのではないか。私たちは神様のきよさには遠く及ばないという思いがある。出エジプト3章にモーセが神様から召し出された神の山ホレブでの体験がある。燃え尽きないしばをモーセは見に来た。神様の声が響く、3:5【神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである。」】。モーセは恐れて顔を隠した。イザヤが、再度召し出された場面もそうである。イザヤ6:5「その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから。」とある。神の人モーセ、イザヤであってもそうである。人は神様の聖さの前に誰も立ち得ないものである。
午前にも引用したが、神様の求めは1:16「『あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである』と書いてあるからです。」である。もしこの言葉だけが単独で記されているなら、神様の聖さに私たちは届くことができない。私たちにはできない、なれないと答えざるをえない。先に話してきたように神様は義なる御方として、私たちをも義としてくださる。聖なる装いは、神様の義の衣の上にある、外套のようなものである。ただ聖でありなさいと言われているのではない。決して無理難題ではないことを知って、神様の聖さに生きる者とされよう。
ペテロ第一の手紙が開かれた。私たちがきよくあること、終末に備えているものであることが記されている。
本論)
Ⅰ.聖さの保証(18-19節)
私たちを聖くするために神様がとられた道は、18・19節に改めて記されている。「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。」である。あがなうとの言葉は、なかなか日本人には届きにくい言葉である。代価を支払い、代償をつぐなって元の所有者に戻される。奴隷が主人に、損害や障害の賠償、財産の買戻しが元々の所有者によってなされる。全く新しく代金を支払って買うのであれば、ただの売り買いに過ぎない。元の所有者という所がカギになる。私たちの元々の所有者は神様である。アダムとエバは神様によって造られ、神様の元のエデンの園に暮らした。人間の根源の姿はそうであった。私たちはエデンの園から時間も距離も遠く隔てられている。ローマ3:9-18に迷い出た罪人である人間の姿がある。少し前の時代までは、日本人の価値基準や倫理観は堅いものがあった。今は崩れてきてしまっている。社会全体が自己中心、自分勝手にばらばらに回っている。迷い出た私たちへのあがないの代価が、イエス様の十字架の血潮であった。銀や金のような朽ちる物ではないという。人間の血潮であっても、人間の命であっても値が付けられない。神の子である、神様そのもであるイエス様の血潮が流し尽くされ、命が注ぎ出されたのであればその価値は、全世界の金銀を集めたとしてもはるかに大きい。全ての人の罪が赦される、さらに、全ての人の心の汚れがきよめられるためには、これほど大きな犠牲が払われなければ満たされなかった。
Ⅱ.聖さに生きる(13-15節)
この世の汚れは余りに深い。突発的な事件がよく起こることも、汚れが深く浸透しているからではないかと思える。不正、汚職、ハラスメント… 政治、経済、スポーツ、その他指導者から個人・一人一人に至るまで、自分を律することが難しい、他者に思いを向けられない。無責任、自己中心が世の中にはびこっている。19世紀イギリスの歴史家、思想家のジョン・アクトンの言葉を良く聞いた「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する」。これを言い変えたて「人間は腐敗する、自分を絶対化する人間は腐敗する。」現代は王や貴族がいるような封建主義社会ではなくなったが、新しい絶対的権力が生まれているかのように感じる。有無を言わせないで、自分勝手な事を進めようとしている人物が多いように思える。
4:3「あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。」とある。次の4節には「度を越した同じ放蕩」とまとめられている。2千年前も今もこの世が好むものは、少しも変わらない。信仰者であってもこの世の風潮に流されないという保証はない。キリスト教会にも多くの痛みがある。人間が関わる所に腐敗は起こって来る。如何に自制するか、自らを正しうるのかということにかかってくる。1:13「心を引き締め、身を慎み」と勧められている。口語訳では「心の腰に帯を締め」と訳していた。日本語にはない言葉であるが、直訳である。自らを正していくしかないが、私は意志も弱く、誘惑には引かれやすい、身を慎むと言われても無理と言いやすい。
聖書には元は信仰深かった人の失敗事例も見られる。アブラハムの甥のロトは元々の信仰も問われるだろうが、ソドムの司の一人となった。自分がこの町を正していくという気持ちがあったのかも知れない。ソドムの滅亡と共に妻を失い、神様の祝福を失っていった。
ダビデの晩年も若い頃に比べるなら残念である。必要のない人口調査を自分の思いで行い。ソロモンへの遺言は自分の恨みを晴らさせよと言っているくだりがある。人間の意思だけでは、必ず真直ぐな道からそれていってしまう。主にあがなわれた者への神様の約束は、イザヤ35:8-10「そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。」にある。イザヤの時代、北王国イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされ、南王国ユダも風前の灯であった。たとえ、国が滅びても残れる民がある。神様の約束は変わることがない。私たちも戦いや困難はあるが、神様の約束は必ず果たされて行く。どんな中でも希望を持ち、待ち望んでいくことができる。
Ⅲ.聖さの永遠性(20-21節)
暗闇が深いほど、同じ光であっても輝きは増す。今の時代に終末を思う。マタイ24章 は小黙示録と呼ばれている。世の終わりの前兆は、偽キリストの出現、戦争、ききん・地震、迫害、偽預言者の惑わし、不法がはびこり、愛が冷えるとイエス様は語られた。これらはすでに起こっているとも言え、これからもっと現わされることだろう。イエス様の預言の後に、続いて25章には終末への心備えをイエス様は語られた。最初の話は10人の乙女であり、5人は思慮が浅く、5人は思慮深かった。10人とも眠ってしまったことは同じ、賢く準備していたのかによって分れた。次はタラントのたとえになる。5、2、1タラントが与えられた僕の働きである。主人がいない時に一生懸命に働いたかが問われた。どれほど私たちは真実に生きているだろうか。最後は羊飼いによって、羊とやぎが分けられる場面になる。小さな愛を実践していく生き方が問われている。
終末がいつ来るのかは知り得ないが、この終わりの時こそ、聖くあることが求められている。神様は一人一人の信仰の内にも、神様が愛されている群れの内にも働かられている。きよめは個人から始まって、周囲に影響を与え、教会に祝福となっていく。
結論)
暗さが世をおおう時代、闇が支配しているかのような時代である。やがて主イエス様は圧倒的な輝きを持ってこの地上に来てくださる。神様の栄光、勝利、支配が明らかになる。主の日がやがて来る。神様は漫然と時間を私たちに与えてはおられない。神様は時を支配し、導いておられるからである。良い意味の神様の前にある緊張感が大切である。私たち自身を正していく、私たちの力を発揮させる。まどろみ、充足しているならそこに前進はない。前のものに向かって体を伸ばして、走り続けていく。
その日に至るまで、神様の義、神様の愛、神様の聖を身に着け、私たちは主を待ち望もう。