ローマ人への手紙4章16節~5章5節

黒磯教会新年聖会Ⅰ
聖書が語るきよめⅠ

序論)
ご挨拶。祈っていただいた新年聖会の御用に感謝。コロナ禍は続き、オミクロン株の対応に苦慮する。約8年ぶりに黒磯教会の説教に立たせていただく。特に新会堂になって初めてであり新鮮な思いがする。この間、天の御国に召された方々も、新しく群れに加わった方々もあることは、折々、辻林師から伺っていた。

新年聖会の御用であり、ご希望を伺いつつ祈り、準備してきた。私たちは「きよめ」という言葉を用いる。「きよめ」を指す言葉は他にも多くある。聖化、聖潔、全き救い、全き愛、ホーリネス、聖霊のバプテスマ、聖霊の満たし、キリスト者の完全、第二の転機、… 様々に語られるのは、様々な角度から受け止められる多様性がある。この言葉の受け止め方には随分、個人差、温度差がある。「きよめ」という言葉に対して、積極的、肯定的に受け止める方、関心が薄い方、それ以上に否定的になってしまう方もないわけではない。どうきよめを受け止めているのか、どう受け止めていけば良いのかを先ず、最初に考えたい。

1)きよめは聖書のメッセージである
今回の大きなテーマの通り、「きよめ」とは何よりも聖書のメッセージである。それは、神様の御心である。きよい神様は、神様を信じている、神様と共に歩んでいる私たちにきよくあってほしいと願われている。聖書の始まりの律法の書、レビ記19:2「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。」とある。聖書の最後に近づく、ペテロ第一1:16「『あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである』と書いてあるからです。」とあるように、聖書全体を通して貫かれているメッセージである。

2)きよめは神様に目を向けるものである
私たちは神様に生かされている者として、日々の歩みに神様の愛、神様の義、神様の聖さが必要だということを知っている。人間が持つ愛、人間が持つ義、人間が持つ聖さは不完全、不十分なものであることに気付いている。自らは持っていないので、私たちは神様に愛、義、聖さを求めていく者である。「きよめ」を求めていくためには先ず神様に目を向ける。人に目を向けて良いが、必要以上に人を大きく受け止めてはならない。きよめに生きた先人の話がよく持ち出される。私たちの信仰の模範として、きよめの事例として見ることは良いことである。しかし、どんなに素晴らしいきよめられた信仰者であっても、聖人のように崇拝すべきではない。J・ウエスレー、B・F・バックストン、小島伊助 … はそれぞれに素晴らしい神の器であって説教と証しに耳を傾けるが、ただ崇拝の対象ではないことは覚えておきたい。

3)きよめは神様の栄光のためにある
ここまで語ったことだが、きよめは信仰者に対して、神様の御心から出て、神様の力によって果たされていく。きよめは神様の御心を満たしていくものである。きよめの恵みを私たちは喜び感謝するが、人間の満足のためにあるのではない。まして人との比較をするものではない。私はきよめられた素晴らしいクリスチャンだという人があれば、その人こそ最初からきよめを考え直してほしい。自己満足のためのきよめ、人と比較して優れているきよめなどというものは本来ないものである。まず、第一に神様の恵みを感謝し、神様に栄光を帰するものである。

4)きよめは教理的に受け止めることができる
きよめは何よりも聖書に記されていることを述べた。聖書の教えは教理としてまとめられていく。神様は私たちに知性・理性を与えられ、知性を通しても神様に近づくことを示されている。きよめは教理の中に位置づけできる。神様の大きな救いの中にあるものとして体系的に受け止められる。体系的に受け止めることによって誤解が解け、スムーズな理解の助けになる。

5)きよめは自発的な願いが大切である
きよめは強要される、強制されるものではない。聖なるものに対して渇きを持ち、きよめを願い求めることによって神様は働かれる。渇きが起こされなければいくら聞かされても心動かないものである。それは、心の備えができていれば、全てを超えて神様は働かれ、きよめの業をなしてくださる。

6)きよめが説かれにくい時代にある
現代はグローバル化の時代を迎えている。国や地域を超えて共通化、均質化、普遍化が進む世の中である。キリスト教会も教派性、教派色というものが以前より薄まってきている。きよめ派の中でも〇○教団のきよめ、××教団のきよめと言われてきたものが近くなってきている。それぞれに特徴があった聖会もその特徴が薄らいできているとも受け止められる。さらに進んでいけば、きよめ派というグループも福音派の中で一つにされていくのかも知れない。グローバル化は世界に恩恵をもたらすだろうが、モノやお金が中心になりやすい。物質主義、世俗化という問題をはらんでいる。世の中の倫理、道徳は低下していくだろう。教会の中にも、きよめという言葉が積極的な関心を受け止められにくくなっている。

 きよめを巡る状況について考えてみた。私たちはこの時代に神様によって生かされている。きよめを受け止める現状は厳しいだろうが、それを越えて私たちはきよめの恵みに生きていく。きよめを今の時代に適用して働かせていくことが神様の御心である。今の時代ほど、きよさが必要とされている時代はない。今回も、喜んで新年聖会の御用を受けさせていただいた。

 前置きが大変長くなった。今朝の礼拝の御言を語る。これまで話した中で、きよめを体系的、教理的に受け止めることは理解を助けると言うことも語った。きよめにいたるにも過程がある。何の上にきよめがあるのか、きよめに至るまでの前段について、第一話として話する。私たちはきよさに与るためには、まず神様によって義と認められなければならないことを語る。午後は、きよめの実際の話を第二話として語りたい。

本論)
Ⅰ.アブラハムが持った義
さて午前の礼拝は神様によって義とされることを話す。旧約聖書に出てくる義とは「ツァデーク」と言う言葉である。この言葉は元来、距離を表す言葉であった。「測り」とも訳されたり、「真直ぐ」と訳されたりもする。神様の義は決して曲がらない、真直ぐなものであることが良く解る言葉である。私たちが神の義と聞くと、ある一面の冷たさを感じる。裁き主、罰を下す、異教的なイメージで言うと地獄の閻魔大王(インドの土着宗教由来、中国で道教と混じり、唐の役人風の装束になる)のような想像をする。私たちが罪のままでいる、汚れたままの状態に留まっているなら私たちは滅びしかない。私たちを愛しておられる神様は、罪の赦しと汚れのきよめを心から願われている。聖書の中心メッセージはここにあると言って過言ではない。罪と汚れに満ちた私たちが救われる、義とされることを見ていこう。

 神様によって義とされた人物の代表はアブラハムである。創世記15章のくだりは余りにも有名である。神様はアブラハムを連れ出され、夜空の満天の星を仰がせられた。アブラハム・サラの老夫妻に子どもが生まれ、その子孫へは星の数のように祝福される。にわかに信じがたい話である(ローマ4:18)。アブラハムの信仰の偉大さは、神様への信頼の大きさにある。神様が語られた事は最善、最高のものであり、不可能はないという信仰に立つ。神様の声を聞いてカルデヤのウルを出発した日から、多くの困難があってもアブラハムの姿勢は変わらなかった。年月を経て、彼の信仰は大きくなり、深まり、豊かにされていった。アブラハムの生涯を見ると、決してほめられたことばかりでないことは解る。12章ではエジプトの地で妻のサライを妹と偽る。一度ならず、20章でもゲラルの地で同じことをする。何よりも16章でエジプト出身の女奴隷ハガルに子どもを生ませてしまったことは痛恨の大きな背きであった。この後13年間神様は沈黙された。この霊的、信仰的な暗闇に留まってしまわずに、これを乗り越えて行くアブラハムは偉大である(ローマ4:19-22)。この後、約束の子イサクが生まれていくことになる。神様に従って、モリヤの山でイサクを犠牲にささげる所に至る。義と認められたアブラハムは偉大な信仰者であった。

Ⅱ.私たちがいただく義
アブラハムの義を見てきたが、大きな失敗を乗り越えて行くことができたのはアブラハムの個人的な資質ではないだろうかと私たちは思う。私たちの信仰はアブラハムほど大きくない。彼のような信仰の歩みはできない。やはりダメだということになる。神様は私たちを見捨ててはおかれない(ローマ4:23-25)。イエス様の十字架の死と、3日目のよみがえりこそ私たちの義認の根拠、保証となる。アブラハムが信仰を持ったのは、異邦人の地、偶像崇拝の地、聖書の神様とほど遠いカルデヤのウルであった。どのように信仰に至ったのかは不思議である。イエス様の十字架の死と復活は、今や誰でも知っていることがらである。私たちが知らないものではなく、私たちが知っているイエス様の業を信じて受け止めていく。神様への同じ信仰とは言え、私たちに開かれている信仰は、アブラハムよりずっと容易である。

信仰による義、救いほど公平なものはない。Cf.私が洗礼を授けた方々の中で、洗礼後の信仰生活が一番短かった方は4日間という方がある。奥様が三浦綾子の著作で教会に導かれた。電話番号帳を見て、飛び込んで来られた。姉妹が洗礼を受けられ、病床の御主人のために祈られていた。クリスマスの直前にご主人が会いたいと言われていると連絡があった。神様の時を信じて、クリスマス礼拝後駆けつけた。病床洗礼を授けて、元旦礼拝の後に訪ねようと思っていたが、4日後に訃報を聞いた。病床で動けないこの方が、良い行いをするという行いによる救いであるなら、何もできない。意識も次第に遠くなっていくのに知識による救いであるなら、そこに届かない。信じることはどんな状態でもできる。信仰による救いほど、公平で尊いものはない。…  信仰による義であるならば、年令も、健康状態も、善人も悪人も、何ら関係なく救いに与れる。これほどの公平はない。誰をも平等に扱われる神様であるからこそ信じるに価する。私たちがあがなわれて、義とされる幸いは如何に大きいかと感謝する。

Ⅲ.義とされた結果
あの人は正しい人、立派な人、人格者と呼ばれる人はおられる。皆さんもそのお一人である。神様の光に照らすなら、私たちは誰も神様の義に価する人間ではない。完全な神様の義にはほど遠い。イエス様の十字架の死と復活によって表された神様の救いによって、初めて義とされる。ローマ5:1では義とされることは神様との平和と記されている。神様との和解、和らぎをいただいて、神様の前に心安んじることができる。神様は心に平安を与えてくださる。私はこれこそがキリスト教信仰の根源にあると思う。神様から与えられる平安こそが不動、不変、永遠のものである。ここに喜びと感謝がある。ここから神様に従う力が与えられる。愛と命に満ちあふれることができる。

神様によって義とされ、平和を与えられている者への約束がつづられている。ローマ5:2-5にある。苦難さえも喜びである ⇒ 忍耐 ⇒ 練られた品性 ⇒ 希望 ⇒ 希望は失望に終わらず、成し遂げられていく。私たちは逃れられない罪人であって、義なる者ではなかった。アブラハムのように失敗を乗り越えながら従っていく信仰の大きさもない。

神様は、全ての人を救い、義とするイエス様の十字架の死と復活を備えてくださった。この義に与れることが何よりの感謝、何よりの基盤となる。Cf.ジョン・ウェスレーの父サムエルが、72歳の伝道生涯を全うして臨終の際、ジョンにこう言い残した。「息子よ、内なる証し、内なる証し、これこそ証明、キリスト教の最も確かな証明なのだ。」と。それが1735年4月25日、その3年後の5月24日に、ジョンは、ロンドンのアルダスゲイト街でのモラビア派の集会でこの内なる証を経験する「私は自分の心が不思議に熱くなるのを覚えた。私は、救われるためにキリストに、ただキリストのみに信頼した、と感じた。神が私の罪を、この私の罪さえも取り去ってくださり、罪と死の律法から救って下さったという確証が私に与えられた」。ジョン・ウエスレ―がその人として生きていく、そこに至る前史は長かった。それら一つ一つは無駄ではなかった。神様はそのこと一つ一つを用いられた。私たちが神に義とされ、神の子とされ、神の平安に生かされるこの証しは何よりの喜びであり、力である。

結論)
 義とされる恵みについて語ってきた。義とされると言うことは、最も短く、最も簡単に言えば救われると言うことである。この義とされると言うことが、私たちの個人的な神様からの恵みの出発点となる。まず、ここに堅く立っていることが何よりも大切である。

義とされた者、救われた者に神様はさらに導きを与えて下さる。私たちも義とされ罪赦されたなら、さらに神様に相応しく生きようと言う聖なる渇きが与えられて行く。午後は神様の聖さの側面から語らせていただく。

義の冠を受ける Ⅱテモテ4:8  義の太陽であるイエス様から マラキ4:2

 

 

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