使徒行伝5章33~42節

「…そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない。」     使徒5章38-39節 (p.188)

序 論)大祭司を初めとする議会の人々は、使徒たちの弁明 (29-32)に立腹し、逆上しました(33)。そのとき律法学者 ガマリエルが立って、語り始めます(34-35)。彼の言葉と その後の使徒たちの行ったことから示されることは…

1.神様が成されたみわざ
  パリサイ人であるガマリエルは皆から尊敬されていました(34)。(原語では「律法学者」ではなく「律法の教師」という特別な学者であることを示す言葉が使われている)   後に使徒パウロが、自分の過去を振り返って、ガマリエルが自分の師であることを語っています。 (使徒行伝22章3節 p.220)
    彼は議会に向かって冷静に忠告します(35-39)。
  彼は、歴史についてよく考えるように語ります。チゥダの反乱と蜂起は一時的に、人々の支持を得ましたが、今や跡形もなくなってしまいました(36)。 ガリラヤ人ユダも  蜂起しましたが、これも滅びてしまいました(37)。
  そして、ガマリエルは使徒たちの行いを「…そのなすままにしておきなさい。…」(38)と言います。 (「放っておきなさい。」新改訳 「ほおっておくがよい」  新共同訳) なぜ放置しておけばよい、というのでしょう。それが本物かどうか、そのうち歴史が証明するだろうと考えていたからです。   そして使徒たちの言動はガマリエルが忠告した通り「人間から出たもの」ではなく「神から出たもの」でした(39)。
  神様が主イエスによって救いの御計画が成し遂げられました(30-31)。そして、使徒たちの宣教も、復活された主イエスが命じられたものなのです。
  「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」 (マタイによる福音書28章18-20節 p.50)

2.み言葉を語り続ける
  この裁判は使徒たちにとって不利に進んでいました。しかし、ガマリエルの発言によって形勢が逆転しました。   以前にみ使いが使徒たちを助け出しました(19-20)が、ガマリエルも使徒たちを助けた人物と言えます。   その後、使徒たちは鞭で打たれてから釈放されます。彼らは宣教することを禁じられました(40)。
  しかし、彼らは「御名のために」(41)辱めを受けることを喜びました。
  文語訳聖書では「御名のために辱めらるるに相応しき者とせられたるを喜びつつ」(41)と訳されています。元の言葉でも「相応しい」を意味する言葉が使われています。
  主イエスの御名のために辱めを受けるに相応しい者とされたことを喜ぶ、これが使徒たちの受け止め方でした。
  そして、変わらずに「命の言葉」(20)、福音宣教を続けていったのです(42)。
  教会の2000年の歴史も、使徒たちの行ったことが神様から出たものであり、世界宣教も神様の御計画の中で行われていったことを示しています。
  私たちにとってならうべきは、歴史の証明にまかせて「ほうっておく」ガマリエルではなく、救い主イエス様を宣べ伝え続けた使徒たちなのです。 結 論)教会の歴史を振り返っても、教会は一貫して、イエス・キリストを宣べ伝えてきたことが分かります。2000 年前の使徒たちも、今の私たちも主イエス様が救い主であるという同じ福音を宣べ伝えています。  私たちは主イエスの十字架と復活の恵みにより新たにされて、主イエスを証しする命の言葉を語っていきます。
 私たちも様々な苦しみや困難に遭うことがあり、時には 辱めを受けることがあるかもしれません。
 しかし、イエス様と共に歩む証し人としての喜び、本当の喜びと慰めと赦されて生きる新しい命が教会にはあるのです。  神の言葉、福音を宣べ伝え続けてまいりましょう。

  パリサイ人であるガマリエルは皆から尊敬されていました(34)。(原語では「律法学者」ではなく「律法の教師」という特別な学者であることを示す言葉が使われている)   後に使徒パウロが、自分の過去を振り返って、ガマリエルが自分の師であることを語っています。 (使徒行伝22章3節 p.220) 
     彼は議会に向かって冷静に忠告します(35-39)。
  彼は、歴史についてよく考えるように語ります。チゥダの反乱と蜂起は一時的に、人々の支持を得ましたが、今や  跡形もなくなってしまいました(36)。 ガリラヤ人ユダも  蜂起しましたが、これも滅びてしまいました(37)。
  そして、ガマリエルは使徒たちの行いを「…そのなすままにしておきなさい。…」(38)と言います。 (「放っておきなさい。」新改訳 「ほおっておくがよい」  新共同訳) なぜ放置しておけばよい、というのでしょう。それが本物かどうか、そのうち歴史が証明するだろうと考えていたからです。
  そして使徒たちの言動はガマリエルが忠告した通り「人間から出たもの」ではなく「神から出たもの」でした(39)。神様が主イエスによって救いの御計画が成し遂げられました(30-31)。そして、使徒たちの宣教も、復活された主イエスが命じられたものなのです。
  「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」 (マタイによる福音書28章18-20節 p.50)

2.み言葉を語り続ける
  この裁判は使徒たちにとって不利に進んでいました。しかし、ガマリエルの発言によって形勢が逆転しました。
  以前にみ使いが使徒たちを助け出しました(19-20)が、ガマリエルも使徒たちを助けた人物と言えます。
  その後、使徒たちは鞭で打たれてから釈放されます。彼らは宣教することを禁じられました(40)。
  しかし、彼らは「御名のために」(41)辱めを受けることを喜びました。
  文語訳聖書では「御名のために辱めらるるに相応しき者とせられたるを喜びつつ」(41)と訳されています。元の言葉でも「相応しい」を意味する言葉が使われています。
  主イエスの御名のために辱めを受けるに相応しい者とされたことを喜ぶ、これが使徒たちの受け止め方でした。
  そして、変わらずに「命の言葉」(20)、福音宣教を続けていったのです(42)。
  教会の2000年の歴史も、使徒たちの行ったことが神様から出たものであり、世界宣教も神様の御計画の中で行われていったことを示しています。
  私たちにとってならうべきは、歴史の証明にまかせて「ほうっておく」ガマリエルではなく、救い主イエス様を宣べ伝え続けた使徒たちなのです。

結 論)教会の歴史を振り返っても、教会は一貫して、イエス・キリストを宣べ伝えてきたことが分かります。2000 年前の使徒たちも、今の私たちも主イエス様が救い主であるという同じ福音を宣べ伝えています。  私たちは主イエスの十字架と復活の恵みにより新たにされて、主イエスを証しする命の言葉を語っていきます。
 私たちも様々な苦しみや困難に遭うことがあり、時には 辱めを受けることがあるかもしれません。
 しかし、イエス様と共に歩む証し人としての喜び、本当の喜びと慰めと赦されて生きる新しい命が教会にはあるのです。  神の言葉、福音を宣べ伝え続けてまいりましょう。

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