ルカによる福音書15章1~7節

よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。           ルカ15章7節 (p.115)

序 論)
  イエス様のもとに取税人や「罪人」と呼ばれていた人たちが、やって来ました。主イエスが彼らと一緒に食事をしていたことをパリサイ人たちは非難しました。
主イエスはたとえ話をして、パリサイ人たちに答えられます。「いなくなった羊のたとえ」が示していることは…

本 論)1.主イエスは一人ひとりを捜し回られる
「百匹の羊を持っている者」(4)は、雇われた羊飼いではなく、「自分の羊」を飼っている羊飼いでした。旧約聖書でも、神様を羊飼い、イスラエルの民を羊にたとえている 箇所がいくつかあります。(詩篇23篇1節p.766等)
羊は臆病で脆弱です。視力もよくありません。だから羊飼いの助けを必要とします。  「一匹の羊」がいなくなっているのを発見するのは、羊を囲いの中に入れるとき、通常、夕方でした。この羊飼いは「九十九匹の羊」を他の羊飼いに託して、一匹を捜しに行きました(4)。
迷い出る羊は、旧約聖書では神様から離れてしまったイスラエルの民を表しています。イエス様はご自分のことを羊飼いにたとえられます。(ヨハネによる福音書10章11節 p.156)   このたとえの焦点は99匹ではなくいなくなった一匹に当てられています。「いなくなった」は、人が神様のもとを離れ、罪の中に陥ってしまっていることを示しています。
神様は、人を罪から救うためにイエス様を地上に送って下さいました。
そして、イエス様は人々を訪ねて行かれ、ご自分のもとに来るようにと招かれました。

2. 神様の大きな喜び
いなくなっていた羊をようやく捜し出した羊飼いは喜んでそれを自分の肩にのせました(5)。(原文では「両肩」。羊が弱っているのを表しているのかもしれません。)そして家に帰ってきて、友人や隣人たちを呼び集め、喜びを共にしてくれるように頼み、共に喜びました(6)。「いなくなった羊」は、原文では「いなくなったわたしの羊」です。
羊飼いが、いなくなっていた一匹の羊が見つかったことを喜ぶように、イエス様は、ご自分のもとに来た一人ひとりを喜ばれるのです。
このたとえは、イエス様のもとに来た取税人たちのことを神様もイエス様も喜んでおられることを示しています。逆に、彼らを見下し、神様の喜びを共にできない、パリサイ人たちの罪深さをも主イエスは指摘しておられるのです。
7節の「罪人」は、1節でパリサイ派の人たちが考えていた「罪人」とは違う意味で用いておられます。イエス様の言われる「罪人」は、神様の御前における罪人のことを示しています。
「悔い改めを必要としない正しい人」(羊飼いに数えられて羊の囲いの中に入った99匹の羊)(7)は、すでに悔い改めてイエス様に見出された罪人たちのことです。彼らも、イエス様から見たら大切な一人ひとりです。
でも、ここでは神様の御前から「いなくなっていた」(失われていた)一人が、神様のもとに帰ったときに神様もイエス様もどれほど喜ばれるかということが最も強調して語られています。

結 論)「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10章11節 p.156)と言われたイエス様は、この言葉の通り、十字架の上で御自分の命を捨てられました。
それは、神様から離れた罪人であった私たちの罪の罰を受けられた身代わりの死でした。イエス様の十字架によって私たちの罪は赦され、父なる神様のもとに立ち返る道が開かれました。
十字架にかかられたイエス様は三日目に復活され、今も生きておられるお方です。そして、私たちが神様のもとに帰るように、今も私たちを捜し求めておられるのです。
神様は、罪人である私たちが一人でも自分の罪に気づいて悔い改めることを心から願っておられます。
悔い改めとは、自分の力で何でもできると思う傲慢さに気づき、謙遜に父なる神様のもとに帰ることです。そのとき99人の正しい人に勝る喜びが天にあります。
父なる神様が送られたイエス様を知り、イエス様を信じて悔い改め、罪から救われ永遠の命に生かされること神様は今も願い、そのことを喜ばれるのです。
主イエスは、私の「良き羊飼い」、「牧者(かいぬし)」私はその「羊」です。     
(詩篇23篇 p.766  新聖歌255番)

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