ルカによる福音書11章1~13節

「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。 … ルカ11章1-2節

 

序 論)イエス様の祈られるみ姿を見、言葉を聞いた弟子たちは、イエス様に祈りについて教えを乞いました。主は弟子たちに「主の祈り」を教えられます(2-4 )。(マタイ6章9-13節 p.8 参照) さらに祈りについて語られたことは…

本 論)1 天の父に親しく呼びかけて祈る
     イエス様は、神様に「父よ(アラム語でアバ)」と親しく呼びかけて祈ることを教えられました(1)。(マルコ14章36節 p.77 参照)。主イエスの十字架により罪赦され、神との関係が回復した私たちは、神様に「父よ」と呼びかてよいのです。そして、そのことを天の父もお喜びになるのです。そして、主イエスは、「願われ続けた友人のたとえ」を語られます(5-9)。「真夜中」に、「友よ、パンを三つ貸して下さい」と願い求めるのは人間的に見ると非常識です(5)。しかし、あえてそれができたのは、「友と私」の間に友人同士の信頼関係が土台にあったからでした。友人は、彼の願いを聞いてくれます(8)。
しかし、神様と私たちの関係は 友人関係以上の父子の関係です。私たちは父なる神様に信頼し、親しく呼び求め、願うことができるのです。「しきりに願うので」(8)は「しつように頼めば(新共同訳)」、「あくまで頼み続けるなら(新改訳)」と訳されてい ます。これらを見ると熱心に粘り強く求めていくことが強調されているように読めます。一方、求めに応えて下さる父なる神様の愛を強調する捉え方もあります。原文の言葉を見ると「恥」という言葉から来ています。「恥をも顧みずに」、「恥を忍んで」となります。ある人は「私たちが恥をも顧みずに祈りをする。神がその祈りに応えてやらなけらば、神の方が恥知らずになってしまう。」と言われています。つまり、もしも神様が私たちを恥のまままに放置されるとしたら、放置した神こそが恥知らずになってしまうではないか。しかしそうではなくて、恥知らずに祈り求めた私たちを恥知らずのままに神様はしておかれない。神様は父としての責任を必ず果たされるお方だとその人は言っておられます。9節以下でも父なる神の愛が強調されています。

2.天の父に信頼して祈る
 親たる者、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。子どもにそんなものを与える親はいません(11-12)。「このように、あなたがたは悪い者であっても」(13)は、罪があり、欠けが多く、弱さをかかえているあなたがた人間も、という意味です。私たちは神様をないがしろにし、隣人を本当に愛することができずにいる罪人です。しかし、基本的には、私たちは罪人であっても子供には良いものを与えようとします。「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」(13) イエス様は、私たち罪人である人間の親でさえ持っている子供に対する愛を示され、それよりもはるかに大きく広く深い、天の父なる神様の愛に心を向けさせられました。このたとえの「友人」の姿もまた神様のことではなく、私たち罪ある人間の姿を表しています。私たちは、友人だからという理由で、つまり純粋な愛によってというよりもしつこく言ってきてうるさいから、これ以上迷惑をかけてもらいたくないから、などという理由でようやく腰を上げるような者です。それが「悪い者である」私たちの姿なのではないでしょうか。しかし、天の父は、そんな不純な動機によってではなく、いやいやながらでもなく喜んで、あなたがたに良いものを与えて下さるのだと主イエスは言われます。 「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(9)のみ言葉は天の父なる神様が喜んで、進んで、あなたがたに良いものを与えようとしておられる、だから父に信頼して求め続けていきなさいと語っておられるのです。神様が私たちの天の父であり、私たちを子として愛し、父親が子に必要なものを与え、養い育てるように、私たちを育んで下さいます。私たちにおいても、親は子にその求めるものを出来るだけ与えようとします。しかし、それは何でも子供の言いなりになるということではありません。子供を本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要なときに与えようとします。私たちに人間の親子関係においてさえそういうことがあるならば、天の父、まことの父となって下さる神様は、私たちに、本当に「必要なものを」(8)を与えて下さるのです。
主なる神様はあなたたちの祈りを聞くと約束して下さっています(エレミヤ書29章10-14節 p.1094)。
祈りが聞かれるとは「わたしを尋ね求めて、わたしに会う」(エレミヤ29章13節)ことです。つまり神様との出会いと交わりが与えられることこそ、祈りが聞かれることなのです、私たちにはその恵みが聖霊によって与えられます。私たちの祈りに応えて神様が聖霊を与えて下さり、聖霊が私たちを御子イエス・キリストと結び合わせて下さり、神様との間に、父と子の関係と交わりを与えて下さるのです。それが、祈りにおいて与えられる大きな恵みです。 

結論)今回のたとえの中で彼は、自分のためではなく困っている「友だち」(5)のために「友人」に求めていきました。私たちも、自分の内に愛が足りないことを日々の歩みの中で示されます。「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。」(4)「私たちの罪をお赦しください。私たちに負債のある者を皆ゆるしますから。」(原文直訳)主の十字架によって罪赦された私たちは、父なる神に人に対する愛と赦しの心が与えられるようにさらに求めてまいりましょう。

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