ルカによる福音書10章38~41節

「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。…」 ルカ10章41-42節

序 論)ある村で、マルタという女性が主イエスと弟子たちを自分の家に迎え入れました。マルタは接待してもてなしました。妹のマリヤは、主イエスの足元に座り、み言葉に聞き入っていたのです。やがてマルタは忙しさに気をいらだて、マリヤのことでイエス様に文句を言いました(40)。
イエス様がマルタに教えようとされたことは…

本 論)1 主のみ言葉に聞き入る
主は、「マルタ、マルタ」と名前を二度、呼ばれています。聖書の中で神様やイエス様から名前を二度呼ばれる人たちは神様から特別に愛されたり、大きな使命が与えられている人です。(創世記22章11節 p.25 ルカ22章31節 p.128 使徒行伝9章4節 p.195 参照)  イエス様はマルタが思い煩いに陥り、心を乱している(40)と言われます。心が乱れると、自分のしている接待、働き、奉仕を喜んでできなくなります。そして、人のことを非難するようになるのです。「自分はこんなにしているのに、あの人は何もしない。手伝おうとしない。そんなことでいいのか。」という思いに支配されていきます。マルタはそのような思い煩い、心の乱れに陥ったのです。
信仰における奉仕は、喜んで、自発的に行うものです。ところが私たちは時として心を乱し、その喜びを見失って、自分だけが何か重荷を背負わされているように感じてしまうことがあります。心を乱しているマルタの姿は、私たちの信仰の生活の中でも時として起こるような事態を表しています。
マルタは主イエスを迎え入れ、接待しました。彼女のような奉仕は主イエスに従う者たちにとってとても大事なことです。でも、主イエスがマルタに望んでおられたのは彼女が、その奉仕を、心乱れ、喜びを失った中で、人を非難するような思いを抱きながらするのではなく、本当に喜んで、自発的にしていってほしい、ということです。そしてそうなるために必要なただ一つのことを主イエスは教えて下さいました。それが、マリヤのように、主イエスの足元に座って、そのみ言葉に聞き入ることです。
主イエスはどのようなみ言葉を語っておられたのでしょうか。それは、主イエスによって、神の国が、つまり神様の恵みのご支配が、確立しようとしているということでし た。人間の力や努力によって神の国を築くのではなく、神様が、その独り子イエス様をこの世に遣わされ、主によって神の国を実現し、そこに私たちを招いて下さるのです。
その神の国の実現のために、この時、イエス様はエルサレムヘ、十字架の苦しみと死、そして復活と昇天による、救いのみわざの成就へと向かっておられました。

2.本当に必要なこと
 マルタが立ち戻るべきところは、マリヤのように、主イエスの足元に座ってそのみ言葉に聞き入ることでした。(当時、足元に座って聞くのは師の教えを受ける弟子の姿でした。また当時のラビ(ユダヤ教の教師)は女性には教えていませんでした。) 「無くてならぬものは多くはない。いや一つだけである。」(「必要なことはただ一つだけである(新共同訳)」)という主イエスのお言葉は、そのことをマルタに、そして私たちに教えています。 マルタの奉仕が本当に生かされ、喜びをもって自発的になされていくためには、マリヤの姿にならうことが必要なのです。主イエスはマルタの信仰と主への愛が増し、その奉仕が本当に生かされることを願っておられます。マリヤに対してと同様、マルタをも愛しておられるのです。それゆえ、「マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである。」と仰ったのです。それは、マリヤの姿勢を喜ばれると同時に、マルタが喜んで奉仕に生きるために必要なことを教えようとされるみ言葉でした。
そして、主の福音のみ言葉を本当に聞いた者は先回の「あわれみ深いサマリヤ人」の箇所の最後のところで語られた「行ってあなたも同じようにしなさい」(34)という主イエスの励まし、勧めを受けます。主イエスの愛のみわざにならう奉仕は、この主イエスの励ましの中でこそなされていきます。そのようにしてマリヤもマルタも共に主イエスのみ言葉によって養われつつ、自分に与えられている賜物を喜んで自発的に献げ、生活の中で具体的に主イエスに仕える者とされていきます。
ある説教者が、ここでの一番の奉仕者は、マルタ、マリヤ、弟子たちではなく、主イエスであると言っています。マリヤは足元に座って、主を見上げるように一心不乱に聞き入っている。主イエスも一生懸命、マリヤに対して語りかけておられたことでしょう。この神の言葉を語られる主イエスのお姿こそ、最大の奉仕者の姿である。マルタが最大の奉仕者ではなく、主イエスである。この説教者は、こう言っています。

結論)マルタが、イエス様から示されたことは、主イエスのみ言葉を聞くことを忘れていたことでした。様々な奉仕は、み言葉を聞いた後に、主のご愛と恵みへの応答として行われるべきものです。
主の足元に座ってみ言葉に聞き入ることが、マリヤの主イエスを愛する行為であり、主のためにまずなすべきことでした。私たちに注がれ続けている神様の愛に応えて、主イエスの足元に座り、そのお話に聞き入る。このことこそ私たちに無くてならぬものです、教会の礼拝は、主のみ言葉をいただき、主の臨在に触れる場です。教会は2000年前の出発の時から、主イエスの足元に座り、み言葉を聞くことを大切にしてきました。そして隣人愛の実践(27節、37節)には、愛の源である主イエスを愛し、み言葉に耳を傾けることがどうしても必要なことです。
礼拝、日々のデボーション(聖書を読み、祈ること)を通して、主イエスとの交わりとみ言葉に聞くことを何よりも大切にしていきましょう。

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