ルカによる福音書8章40-48節

そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。   ルカ8章39節

序 論)イエス様と弟子たちがガリラヤ湖の対岸のゲラサ地方から帰って来られるとガリラヤの人々はイエス様を喜んで迎えました。それはイエス様による病の癒しを期待してのことでした。会堂司ヤイロがイエス様のもとにひれ伏し、娘を助けて下さるように願います。主イエスはその願いを聞き入れて彼の家へと向かいました。その途中で起こった出来事は…

本 論)1、イエス様のみ衣に触れる女性
  その途中で、一人の女性がイエス様に後ろから近づきました。彼女は十二年間、出血が止まらない病気を抱えていました。これは肉体的につらい病気であるだけでなく、当時のユダヤ人の社会においてはむしろ精神的に大きな苦しみを与える病気でした。(レビ記15章25~27節p.158)そのため彼女は普通の社会生活ができませんでした。ですから彼女が群衆の中に紛れてイエス様に近づくのは相当な勇気が必要なことでした。汚れた者であることが周りの人に知れたら白い目で見られ、追い出されてしまうのです。
それでも、彼女はイエス様のもとにやって来ました。彼女がそんな思いきったことをしたのは、この十二年の間、病気の癒しを願ってほうぼうの医者にかかり、全財産を使い果たしたけれども治してもらえず、苦しみ続け、絶望していたからです。この女性は、イエスという人が数々の癒しのみ業を行っているといううわさを聞き、その人に触れるだけで癒されるかもしれないと思って、イエス様のそばに後ろから近寄りました。そしてイエス様と面と向かって出会うことなしに、自分のことを知られることなしに、癒しの恵みだけをいただいて帰ろうとしていたのです。このようにして彼女は最後の望みをイエス様にかけ、群衆の中で後ろからそっとそのみ衣の房に触れました。すると、「その長血がたちまち止まってしまった」(44)のです。病が、たちどころに癒され、そのことを彼女自身が体に感じたのです。
この女性は、苦しみ、悲しみ、悩みの中で、イエス様の救いを求めたのです。彼女のつたない、信仰とは呼べないような、ただ救いを求める思いにイエス様は応えて下さいました。私たちも最初は、同じような思いでイエス様のもとにやって来ました。あるときはこの女性のように、癒しや様々な悩みの解決をいただいてそっと帰ろうとしたときもあるかもしれません。けれども、イエス様は、私たちがそのような様々な動機や思いを抱いて主のもとに来たことを「あなたの信仰」と言って受け止め、私たちが期待している以上の救いのみ業を行って下さいます。

2、人格的な交わりを求められるイエス様
  その後、イエス様は、「わたしにさわったのは、だれか」(45)と言って、自分に触れた人を探そうとなさいました。それは「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」(46)と言われるように、誰かが救いを求めて自分に触れたことをイエス様は敏感に感じ取られ、その人を見つけ出そうとされました。そしてついに「女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。」(47) 彼女は、できることならこの出来事を隠しておきたかったのです。汚れた者である自分が群衆に紛れてイエス様に触れたことが明らかになれば、人々からどんな非難を受けるかわかりません。誰にも気づかれずにそっと家に帰りたいと思っていたことでしょう。そういう意味では、「わたしにさわったのは、だれか」と問われ、その人を探し出そうとされるイエス様のみ姿は彼女には、気の毒なことのようにも思われます。ではイエス様はなぜ、そのようにされたのでしょうか。それはイエス様が彼女と正面から向き合い、出会おうとされたからでした。イエス様は振り返って彼女を探し出し、彼女と出会い、交わりを持とうとされました。このことは、イエス様が与えて下さる救いの中心は、病気が癒されたり苦しみが取り除かれたり、道徳的教えを受けることではないことを示しています。救いの中心は、イエス様との出会いと交わりにこそあるのです。救いを求めて後ろからそっと触れたこの女性の思いをイエス様はしっかりと受け止めて下さり、振り向いて、その人と向き合い、出会おうとなさるのです。彼女は、自分を探そうとされるイエス様に応えました。群衆の前で「震えながら進み出て」(47)、自分の病気のこと、イエス様に触れたらそれが癒されたことをイエス様に打ち明けました。彼女にとって人前に出ることはつらいことだったでしょうが、しかしそれによってこそ、イエス様のみ言葉が与えられたのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(48) このみ言葉をイエス様からいただいたことこそが、彼女の救いとなりました。このみ言葉をいただいて、彼女は本当に新しくされ、安心して生きる者となることができたのです。

結論)もし、彼女がこのみ言葉をいただくことなしに家に帰ったとしたらどうだったでしょうか。その場合でも病気が癒された喜びはあったでしょう。しかし、それは一時のことで、病気がいつ再発するかもしれない、別の病気になるかもしれない、あるいは病気とは全く別の苦しみ悲しみが新たに襲ってくるかもしれない、という不安がいつもつきまとうのです。
しかし、実際にイエス様は彼女を、信仰者であると認めて下さり、安心して行きなさいと励まし、新しい人生の歩みへと送り出して下さいました。今、私たちは聖書のみ言葉を通して、イエス様の御生涯の全体、とりわけ、主の十字架の死と復活によって救いのみ業がすでに成されていることを示されています。イエス様を信じて、心に受け入れている私たちに、主は「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と御声をかけて下さり、新たに送り出して下さいます。そして、送り出すだけではなくどんなときも私たちと共にいて下さり、人生の旅路を共に歩いて下さるのです。

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