ルカによる福音書3章1~6節

「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、人はみな神の救を見るであろう。」ルカ3章5~7節

 洗礼者ヨハネの宣教は、AD27-28年に始まりました。ルカはその年をローマ帝国第2代皇帝テベリオ在位の15年と告げています(1)。(歴史の本では「皇帝ティベリウス」)当時はローマ帝国の支配と干渉により、ユダヤの国には大祭司が二人立てられていた混乱の時代でもありました(2)。その時に洗礼者ヨハネがなしたことは…

本 論)A.悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた
  バプテスマ(洗礼)は元来は異邦人がユダヤ教徒になる場合に用いられた儀式ですが、ヨハネはユダヤ人に、ヨルダン川でバプテスマを施しました。聖書は「…バプテスマを 宣べ伝えた。」(3)と告げているように、ヨハネは自分に臨んだ神の言(2)を人々に伝え、罪の赦しと悔い改めを説きました。ヨハネは神様から示された言葉を人々に伝えました。その言葉は、マタイによる福音書によると、次の言葉でした。

「悔い改めよ。天国は近づいた。」(マタイ3章2節 p.3)

ユダヤの人々は「天国(天の御国)」という、この言葉を聞いた時、世の終わりが近づいたと思いました。世の終わりが来たら、神様の裁きの場に一人ひとりが立たされ、律法を守っているかが問われる、守っていない者は罰せられる。そのことを恐れて人々は罪の赦しを求めて続々とヨハネのもとに来ました。ヨハネは、罪の赦しを得るために悔い改めのバプテスマを受けなさいと勧めました。悔い改めとは、自分の罪を正直に認め、神様に心を向けて赦しを求めることです。ヨハネがバプテスマを宣べ伝え、施すことは、後に来られる救い主をお迎えする備えのためでした。

1、救い主に心を向けさせ、証しした
  ヨハネは旧約時代のイザヤやエレミヤのような預言者の系譜に連なる人物でした。預言者は、神様から受けたメッセージを語り、人々を神の前に立たせ、やがて来られる救い主に心を向けさせる使命が与えられていました。旧約聖書の最後の預言者はマラキですが、その後、400年間、預言の言葉が記されませんでした。洗礼者ヨハネはマラキの預言から約400年後に現われた預言者でした。ヨハネがそれまでの預言者と違うのは、私のすぐ後に救い主が来られると預言したこと、そして救い主イエス様に洗礼を授け、この方こそ、世の罪を取り除く神の小羊、救い主だと直接に証ししたことでした。  (ヨハネによる福音書1章36節 p.136)ルカは預言者イザヤの言葉を引用しています。(4-6)

呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、 さばくに、われわれの神
のために、大路をまっすぐにせよ。 もろもろの谷は高くせられ、もろもろ
の山と丘とは低くせられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地とな
る。 こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。 これは主の
口が語られたのである」。 (イザヤ書40章3-5節 p.996)

王が家来たちを従えて来られるとき、道路工事をして、山を崩し谷間を埋め、曲がったところをまっすぐにしてお迎えするように救い主が来られる備えをせよと預言しました。  この預言は、洗礼者ヨハネが現われたときに実現しました。6節の「人はみな」はもとの言葉を直訳すると「すべて肉なる者」という意味です。そして、この「肉」は「罪ある者」を意味しています。ユダヤ人だけでなく、世界中のすべての人を罪から救う御方、真の救い主イエス様が来られたのです。イエス様が、30歳で宣教を始められたとき、このように言われました。

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
(マルコによる福音書1章15節 p.51)

ただ罪を悔い改めるだけではなく、福音を信じなさい。福音そのものであるイエス様ご自身を信じ、心に受け入れて新しい命に生かされて歩みなさい、と。イエス様が悔い改めなさいと言われたのは裁きのときが来たのではなく、神の救いが現われたことを伝えようとされたのです。

結論)イエス様の十字架によって、私たちの罪を本当の意味で赦して下さる神様の憐れみ、神様の御心が示されました。

「すべての人を救う神の恵みが現われた。」
(テトスへの手紙2章11節 p.339)

洗礼者ヨハネも他のどんな人も、どんな儀式も人を救うことはできません。十字架にかかられ、復活されたイエス様だけが私たちを罪から救い、聖霊によって、私たちを新しい命に生かして下さる御方です。イエス様を神の御子、私の救い主と信じた者は、すで  に罪から救われ神の恵みをいただいているのです。

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